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<書評>『杉原千畝とコルベ神父 生命をみつめる』

『杉原千畝とコルベ神父 生命をみつめる』早乙女勝元著 新日本出版社 2021年

『杉原千畝とコルベ神父 命をみつめる』

 『生命をみつめる 杉原領事とレーロチカのパン』及び『コルベ神父―優しさと強さと』の二作品をまとめたもの。いずれも、自身で経験した東京大空襲の記録を語り継ぐとともに、戦争の悲惨さと平和の重要さを訴え続けた、児童文学家・舞台作家・脚本家・ジャーナリスト等として活躍した、早乙女勝元の作品。内容は、対象にした人物の故郷やゆかりのある場所を訪ね、また関係者にインタビューした紀行文及び記録となっている。

 さらに細かい内容を紹介すれば、杉原千畝(すぎはら ちうね)は、戦時中の日本国リトアニア領事代理として、外務省の指示に逆らって約六千人とされるユダヤ人に日本通過のビザを発給し(その後彼らはアメリカへ亡命した)、戦後イスラエル及びユダヤ人団体から顕彰された人物である。杉原本人は既に物故されているため、未亡人及びリトアニアで杉原の下で働いていた女性をそれぞれ取材している。

 また、レーロチカというのは、第二次大戦中のドイツ軍による900日間にわたるレニングラード(現サンクトペテルブルク)包囲戦により、大勢の市民が飢餓で死んだが、ある家族の三人姉妹の当時三歳だった末娘の名で、配給された小さなパンを齧った後に亡くなった。しかし、飢餓状態にあった家族は、その残されたパンを食べることなく末娘の記憶として保存した。そして戦後、戦争の悲惨さを示すものとして、家族の写真とともにレーロチカの家族が通った小学校に展示されている。

 コルベ神父とは、日本の長崎にも布教にきたカソリックの神父で、ポーランドにおいて独自の団体を作って活躍していた聖者である。戦中ナチスに疎まれてアウシュビッツ強制収容所に入れられ、仲間の代わりに飢餓室へ行くことを志願して死んだ。その後ローマ教会から福者を経て聖者に列せられている。

 本書は、私が近所の図書館に行ったとき、アラビアのローレンス(T・E・ローレンス)の本とともに手に取ったが、結局こちらの方に集中してしまい、約四時間で一気に読み終えてしまったもの。私がnoteで定期的に投稿している、仕事をしているときに積読状態だった本を対象にした<書評>とは異なり、発行も2021年と近いため、新刊本の書評のようになった(しかし、宣伝ではない)。なお、著者が児童文学家ということもあって、平易な文章で書かれているため、外国語で書かれた難解な哲学書を無理矢理翻訳した文章と比較すれば、非常に読みやすかったのが一番の感想だ。

 また、前述したアラビアのローレンスよりもこちらの方に私が関心を惹かれた理由は、何よりも杉原千畝に関するものだったからだ。個人的なことを書かせてもらえれば、私も外務省の人間として40年間働き、東京の外務省本省及び海外の日本大使館・総領事館・領事事務所で、担当事務の一つとしてビザ(査証)発給に係わってきた。

 もとより杉原が生きた時代とは大きく異なるが、ビザ発給に係わる人道案件には非常に悩まされた。幸いに政治亡命案件を扱うことがなかった上、そもそも政治案件については、担当官である私一人が対応することは皆無であり、全て「東京」にお伺いをたてて対応しなければならない規則のためむしろ幸いだったのだが、経済難民としての不法就労や偽装結婚などについては、全てを「東京」に委ねるわけにはいかず(申請者数が膨大であったため)、担当官である私の経験・予見・裁量が試されることが多々あった。

 しかし、毎回自分の行った判断が正しかったか否かについては、最後まで自信を持てなかった。特に自らの心を鬼にして拒否するケースなどは、しばらく気持ちが落ち込むことが多かった。所詮人が人を判断することには無理があるのだ。

 だから、杉原の行ったように自分もできたかと問われれば、正直にできなかったと答えるしかない。そもそも、私は所詮、末端の小役人でしかなかった。そして、自らの全て(仕事や家庭)を投げうって多くの人を助けるというような意志は、杉原のようには持ち合わせていなかった。そして、それだからこそ、杉原の行ったことは本当に偉業であったと認めるのだ。

 それから、レーロチカの残したパンについては、私はこう理解している。残された家族にとって、そのパンを食べてしまえば、自分たちの人間としての尊厳を失うことになると気づいたからではないだろうか。パンは、イエスが弟子たちに示したように、レーロチカの身体の一部に見えたのだと思う。家族は、残されたパンを食べて数日の命をつなぐことよりも、パンとレーロチカを同一視して、それを大切に守ることによって、自分たちの生きる希望と人としての誇りを維持するための「聖遺物」にしたのだと思う。その結果、「聖遺物」に希望を求め続けた家族は、餓死することもなく戦後まで生き残れた。まさに「聖遺物」の御利益だったのではないか。

 コルベ神父の件は、長く結核に犯されていた神父は、敬虔なキリスト者としての殉教の場を求めていたのではないかと思う(これは著者の早乙女勝元と同意見)。そして、自分とともに餓死室に入れられた九人に対して、餓死するまでの間に福音を授けることで、死の恐怖を軽減するというキリスト者としての務めを果たした。そうした殉教に値する行為をするために、身代わりになって餓死するという選択をしたのであったと考える。

 また、コルベ神父に助けられたポーランド軍人が戦後も長く生き続けたことは、神父の願いを自ら生きることで見事に実現した立派な行為だったと思う。このポーランド軍人までも収容所で死んだのでは、コルベ神父の殉教の意味は虚しくなったことだろう。

 ところで、『夜と霧』という強制収容所から生還した精神分析医(ヴィクトル・フランクル)の記録があり、このnoteの書評にも書いているのだが、もしも私が強制収容所に入れられたら、すぐに自殺していることだろう。その方法は、高電圧の流れる鉄条網に突進して感電死するか、あるいは監視兵に銃撃されるかのいずれかになる。なぜなら、私は弱いからだ。私の心身は弱いという自覚があるからだ。私は他人の食べ物を奪ったり、自分だけが楽な仕事に就くようにうまく立ち回ったりすることは、絶対にできない。自分にそうしたチャンスがあっても、私は確実に他人に譲ってしまう(争いに負けてしまう)。

 それは私が弱いからだ。だからこそ、地獄のような世界から生還した人たちに、私はただ頭を下げるだけだ。ただし、私は武士道または禅の心を自覚しているつもりでいる。つまり、(避けられぬ)死に向かって悄然となれると思っている。だから、この自殺行為は、自分が「自分自身として生きるための死」であり、そのための覚悟をこれまで練ってきた結果となるのだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」の意味は、ここにこそある。

<私の海外生活や海外体験を元にした、世界の様々な都市について書いたエッセイです。アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売していますので、宜しくお願いします。>


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