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<書評>『イタリア・ルネサンスの文化』

『イタリア・ルネサンスの文化』ヤーコブ・ブルクハルト著 柴田治三郎訳 中公文庫
原本は1860年、文庫は1974年。

イタリア・ルネサンスの文化

1.普通の書評として

 著者は、歴史を勉強するものにとっては、いわずとしれた大家である。また、フリードリッヒ・ニーチェとも親交のあった学者で、19世紀末のキリスト教思想に対する批判精神を持っている。そうした雰囲気は、本書の対象であるイタリア・ルネサンスの文化の担い手であった、当時の人文主義者たちにも通底する。

 また、著者の筆跡は、歴史の順番としては正反対だが、日本の塩野七生氏と似た筆使いで歴史小説を紡ぎ出している。そこには、歴史の徹底した実証主義というよりは、著者の視点に立ったドラマを再現するというイメージが強い。

 以上のように書くと、まるで適当に歴史を捏造したようにも聞こえてしまうが、そんなことはまったくなく、著者はイタリア・ルネサンスの文化に関する多種多様な資料を熟読し、それらに相応しい引用と構成を行って、この人類史で最も重要な出来事のひとつである歴史を見事に再現している。

 そうした姿勢は、歴史の父とされるヘロドトスがペルシャ戦争を記した『歴史』から始まるヨーロッパの歴史叙述の伝統に従っている他、東洋の司馬遷『史記』に並ぶ面白さを持つ。そのため、本書が発行されてから約160年が経つ現在でも、イタリア・ルネサンスの文化を研究するものには必読書であり、またその見解は研究者の原点でもあるばかりか、私のような一般の読者も面白く読めてしまう。

 このような素晴らしい歴史書を、ずいぶん昔に購入しておきながら、(生きるための仕事という言い訳はあるにしても)今にしてようやく読めた自分を祝福してやりたい。とりあえずは、私もイタリア・ルネサンスの文化を、初心者として語れる資格を持てたのだと喜んでいる

2.お勉強のための抜き書き(抜粋)

 本書の中で、私が気になった個所が二つあるので、これを紹介したい。

(1)ベルーノの修道士ウルバーノ・ヴァレリアーノについての記述
「欠乏と労苦のさなかにあっても、この人は幸福であった。それはこの人が幸福になろうと欲したからであり、この人が安逸に慣れず、空想におぼれず、節操や無欲の心を失わず、むしろ乏しさをもって、あるいは無をもって満足していたからである。」
「少年のころから修道院の中で、食事や睡眠すら一度も自分の思いのままに楽しんだことはなく、そのため強制をもはや強制とは感じなくなっていた。」

(2)イタリア人の旅行について
「(コロンブスについて)真の発見者とは、偶然に最初にどこかに行き当たった者ではなくて、さがしたうえで、見出す者なのである。」

3.余話として

 今の私は、ヴァレリアーノの如く修道院で生活することに憧れている。毎日の規則正しい仕事と質素な食事、そして読書と祈祷、粗末な衣服。そのことの永遠の繰り返し。そこにこそ、本当の幸せがあるような気がしている。

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「さがしたうえで、見出す」とは、まさに先験的経験があってこそ、経験が真の経験になるという、20世紀哲学の考えた方に共通する。歴史とその記述もまた然り、ではないか。

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