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<書評>「星の王子様 The Little Prince」

20214星の王子様1

1943年 アントワーヌ・サンテグジュペリ著 キャサリン・ウッド英訳 1982年ハーコート・ブレイス&カンパニー

1.献呈文宛先の表記について

最初の献呈文の宛先は,Leon Werthとなっている。これは,英語読みにすれば,「レオン・ワース」と発音するが,フランス語読みなら,日本人には発音不可能なR音(ウとルの中間で,喉の奥で強く息を出すような音)が入っているため,無理にカタカナ表記すれば「レオン・ヴェゥルトゥ」という感じになる。なお,「W」は,フランス語で「ドゥブルヴェー(ダブルヴィー=Vが二つ)」と発音するので,「ワ」音ではなく,「ヴァ」音になる。

だから,一般に訳されている「レオン・ヴェルト」の表記が良いという結論になるが,私は,この作品が,フランス人がフランス語で書いたものではあるが,最初に世に出たのはアメリカ人が翻訳した英語版だったこと。また,世界的に著名になったのは,フランス語版からではなく英語版だったこと。そして,アメリカ人はフランス語の知識を持っているわけでもないから,普通はWerthを「ワース」としか読まない。だから,私は英語版を読んだ者として,「ワース」という表記にこだわりたい。

なお,出身地の発音と異なる読み方で流通している代表に,音楽家のChopinがいる。一般にはフランス語式に「ショパン」と呼ばれるが,母国ポーランド語では「ショピーン」だ。だからといって「ショパン」を「ショピーン」と改める事例は,日本ではないと思う。Werthについても同様だと思う。

もう一つこだわりたいのは,フランス語でも英語でも,日本語のように漢字・ひらがな・カタカナという文字の表記が多様ではなく,アルファベットしかないため,原文のニュアンスを,子供向けだからといってひらがなばかりで表記するのは,ちょっと違うと思う。少なくとも,私は詩人の独白のように読んだし,英語のウィキペディアでは同様の多くの意見が記述されている。だから,これは子供向けの本ではなく,ごく普通の散文詩ではないかと理解している。

2.読み方があるとすれば...

ネットに掲載されている感想を読んでみたら,意外と「難しい作品」というのが多かった。

また,語り手の作者に対して主人公となる「王子」を,一人の人間,普通の人格として読んでいる人が多い気がした。しかし,「王子」は地球外の惑星から来たのだから,論理的には人間ではない。

「王子」は花や狐と会話ができるから,これだけでも人間でない証拠だ。だから,「王子」は象徴的なイメージとして読むべきだと思う。

そして,この作品は子供が読むような童話ではない。大人が読むべき物語だ。

また,巻頭言の「レオン・ワースへ」という文章を,パリに住んでいるレオン・ワースに宛てたものと読む人が多いようだ。しかし,最後に「子供時代のレオン・ワースへ」へと,わざわざ訂正しているところから解釈すれば,レオン・ワースという宛先を借りた,作者の分身である「王子」のことを書いたものと読むべきだと思う。

だから,この作品は,現代芸術同様に頭で理解する必要はない。なんでも理解しようとするのは,まさに「大人」の悪癖だ。ただ感じて欲しい。自分の感性を信じて,言葉から浮かび上がるイメージを,ただそのまま感じればよいのだ。

それはまた,読む人毎に異なる人生,異なる生活があるように,一人一人の自分の持っている背景を元にして,その人だけの感じ方をすればよい。そしてその感じ方の揺れ幅が大きければ大きいほど,この作品は優れた芸術と語り継がれると思う。

3.私の感想...

日本では,「星の王子様」と訳されているが,私は原文通りに「小さな王子」と表現したい。そうすることが,作者の意図をより確実に伝えられると思うから。

バラの花は,ジャンヌ・モローかカトリーヌ・ドヌーヴが相応しい。意外なラインでは,フランソワーズ・ドルレアックやアヌーク・エメになるだろうか。間違ってもブリジット・バルドーやジーン・セバーグではない。美しくてエレガントだが,身勝手で注文が多いフランス女にぴったりだ。たぶん,作者もこうしたフランス女に,さんざん苦労させられたのだろう。

小さな王子の姿は,作者の人生を文学的に昇華させたものだと思う。バラの花以外にも,登場している酒飲み,銀行家,王様などのキャラクターは,作者が実際に人生で出会った困った実在の人々がモデルになっている。

そして,最後の王子の死=永遠の旅立ちは,作者の少年(子供)時代との永遠の別れを意味している。大人になってしまった作者には,もう少年の心は持てなくなっているのだ。それは,遠い星の中にしか生き残っていない。

こうしたことを,日本の詩歌の伝統では「うた(歌・詩)のわかれ(別れ,離れ)」と表現してきた。ところで,よくフランス人と日本人の感性は似たものがあると言われる。たとえば,小津安二郎作品を世界で最も高く評価しているのは,フランスの映画人だった。そういう点では,このテグジュペリの感傷は,日本人には痛いほどわかりやすい。

また王子の姿は,作者のアニマが具体化したものではないかと思う。サン・テグジュペリの心の奥深くある心象を,文字と絵に表したのが,この王子の物語ではないだろうか。

この作品は,著者が言うように決して子供向けの童話ではない。ましてファンタジーでもない。既に過ぎ去ってしまった,自分の持っていた少年の光と影を追想した作品であり,大人になった著者が遠い過去を振り返って,自らのイメージを文章に止めておくために記録したものだ。それは,作品に書かれている6年前のことではない。たぶん,6X6年の36年前,著者が6-7歳の頃ではないかと思う。

ところで,私が6-7歳の頃を思い出すと,3月生まれだったので小学2-3年生になる。もちろん,4月生まれと比べて1年近く遅く生まれたことや,両親が小柄で,しかもたぶん前世がベジタリアンだったことから満足に食事ができなかったので,僕は学年で一番小さく,病気がちで運動能力が低かった。

身体は一番小さかったけど,頭の中身は比較できないことではあるが,「一番小さい」ことはなかったと思う。そして,特別に優秀ではないが,勉強についていかれないようなことはなかった,知能の発達ではなく身体能力の差が如実に出る体育実技を除いては。そして,羊のように内気でおとなしかったから,クラスの仲間からは,「小さな子供」扱いされていたけど,僕自身は,そんなことを面白がっている「本当の子供たち」を,どこか見下している「(嫌な)大人」の気分だったのを覚えている。まあ,これは身体的コンプレックスを乗り越えるための,自分自身への欺瞞でもあったが。

そうこうするうちに,年を重ねるごとに身体的ハンデは解消され,読書好きなことが幸いして,人並みの学校の成績を収めることができたし,大学にも進学できた。また,生活の糧を得るための確実な就職もできた。結婚をし,一人だけだが子供を社会人に成長させた。いつのまにか,「一番小さい子供」は,ごく普通の大人になってしまったのだ。

だからこそ,そして,もう老年になった現在の私だからこそ,この作品を今読むことが必要だったのだと思う。かつての「大人ぶった小さな子供」は,「小さな子供のような体力になった皮肉屋の老人」になったけど,これからは,普通の老人のように過去の自慢話をするのではなく,小さな子供のような心を取り戻すことに専念したいと思う。

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