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<閑話休題>「それを知って、どうするの?」

 私は、いろいろなことを学んだり、知ったりすることが好きだ。例えば、先日駅にある駐輪場案内係のアルバイトに応募して(残念ながら、体力的に無理なことを確認して辞退したのだが)、その仕事内容を知ることができた。また、先日はコールセンターのアルバイトに応募して、現在のコールセンター業務の一端を知ることができた(ここも、65歳という年齢と週3回4時間勤務ということから不採用となった。なかなか老人のアルバイト探しは難しい)。

 こういう話をしたら、「それを知って、どうするの?」と妻に聞かれた。私は、「ただ知ったことだけで、それ以外にもない」と答えたら、ちょっと怪訝な顔をされた。

 考えてみれば、「・・・して、どうするの?」というのは、よく言われる言葉であり、またそれが社会人(また学童も含む)としての真理であるかのように使われていると思う。例えば、よく聞かれるものとして「数学を学んで、どうするの?それが何か実生活で役に立つの?」というのがある。同じように、文学や芸術に勤しんだり、ひたすら読書したりしていると、「なんでそんなに熱中しているの?それが、将来何かの役に立つの?」と聞かれることがある。

 これらは、そうした「役に立つ」とか「何かのため」といった別の目的を達成するためにやっているのではないと、私は昔からずっと考えてきた。文学も、芸術も、読書も、さらに数学の勉強も、何かの目的をもってやっているわけではない。それ自体のために、ただそれをやっているだけだ。

 例えば、ゲームやスポーツを必死になってやっている人がいて、「何かの役に立つのですか?」とか、「何のためにやっているのですか?」と聞かれた場合、その人は当たり障りのない「健康のため」とか「頭の体操」とか、相手が期待している何か合目的的あるいは生産的な答えをすることが多いと思う。しかし、本心としては「ゲームをしたいから」、「スポーツをしたから」というシンプルなものではないか。しかし、そうした本心を答えてしまったら、合目的的でない答えに質問した人はがっかりすることだろう。従って、この種の質問に対する答えは大変に難しいと感じている。

 というわけで、ゲームやスポーツだけでなく、文学も芸術も「何かのため」とか、「役に立つ」といった目的をもってやるわけではない。ただ、文学や芸術をやりたいだけであり、文学・芸術そのものを、ゲームやスポーツのように楽しんでいるだけだ。たまたま、将来こうしたことの結果から、作家や芸術家、あるいはゲームやスポーツで収入を得るようになる場合もあるかも知れないが、それは当初から求めている目的ではなく、好きでやってきたことの単なる結果でしかない(もちろん、その例外はあり、プロ野球選手になるために『巨人の星』の如く少年時代から過酷なトレーニングを積み重ねて、その結果プロ野球選手になった等は実例としてある。

 しかし、ここで留意しなければならないのは、そうした「希望」を「目的」とした場合、確実に実現する保証はなくまた確率も低いということである。プロ野球選手として生活している人たちは、プロ野球選手になれなかった圧倒的多数に対する少数である。そして、プロ野球選手になれなかったからと言って、野球をプレーする(愛好する)ことを直ちに止めるわけではない)。

 こうしたシンプルな「それだけのため」という状況に、無理矢理生産的とか建設的とか、費用対効果とか目標設定とか、いうなれば「それは儲かりますか?」、「今日の稼ぎにつながりますか?」という次元のみの判断を持ち込まれてしまうと、もう文学も芸術も、ゲームもスポーツも、そのものとしての真実を喪失し、たんなる資本を生み出すための方法・道具になってしまうだろう。これは、勉強することや知ることにも通じるものだ。勉強は、ただ勉強したいからするのだ、知識を得るのは、ただ知りたいから知るのだ。それ以上でも以下でもない。そこに、何か別の要素が入り込む余地はないのだ。

 とはいえ、現実の社会では、目的・目標を実現するために強いられる勉強や知識の取得がある。当然、これらは自ら求めてやるものではなく他者から強制されるものだから、当然楽しくはないし、またそれらは楽しめるものではない。勉強と行う当事者には、ただ苦痛・苦役としか感じられないから、勉強しようというモチベーションの維持はかなり難しい。しかし、目的・目標の達成(入学、入社、資格取得等)のためには、そうした苦痛・苦役を乗り越えねばならない。また、そうしたことを当然のものとして受け入れているのが現実であり、さらにそうしたことを受け入れなければ、社会人として通常の生活を営むことが困難になるように社会は形成されている。

 私は、こうした社会は心地よくないとしか思えない。楽しくない勉強や苦しい知識の取得、健康に影響するような激しいスポーツの鍛錬といったことは、人が人として生きるために絶対に必要なものではないし、むしろ実害が生じてしまうことであると思っている。そして、それらを要求するのは、人が作り上げた「社会」であり、しかも大多数の人が同意の上に作り上げた「社会」ではなく、一部の人によって恣意的に作られた「社会」である。従って、現実の「社会」におけるルール等を金科玉条として盲信する必要は当然ないし、そもそも「社会」の形態は、時間の経過、つまり人類の進化とともに変化していくのが自然だ。

 現在の社会が成立したのは、産業革命以降のものと仮定すれば、既に200年は経過した。その弊害を挙げれば、例えば二度の世界大戦や核兵器の開発という、人の生命を徒に奪うものがあった。この200年で人類は、幸福な生活へ進化したのかと聞かれたら、そうだと確信もって答えられる状況ではないことは、誰もが認めるものと思う。そして、人類が幸福に向かって進化することを求めるのであれば、もうこうした社会とそのルールは、止めにして良いのではないか。そして、「ただそれだけのため」という純粋な心で、勉強や知識を得たり、スポーツやゲームをしたりできる社会に進化できれば、そこに人類の幸福があると思うのだ。

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