<閑話休題>大衆と民衆、衆寓政治とポピュリズム
スペインの生んだ20世紀の著名な思想家にホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883~1955年)がいる。彼は、1930年の『大衆の叛逆』において、20世紀の衆寓政治とポピュリズムの世界を予言し、現実は予言通りとなった。彼の思想の概要を、雑誌『現代思想 臨時増刊 現代思想の109人』にある樺山紘一の解説を引用して紹介する。
「現代世界を大衆の時代であると断言した。その世界をすぐれた少数者と大衆とのあいだの拮抗の関係としてえがいたが、少数者はその時代に課された普遍的な課題を自覚し、きびしい自己鍛錬によってそれを達成すべき選ばれたひとびとである。これにたいして、大衆とは、自己にも何物をも課すことなく、ただ現実的な利益をもとめて浮動する。『大衆人とは生の計画を持たずに波のまにまに漂う人間である。したがって、大衆人の持つ可能性がいかに大きいにしろ、彼は何も建設しないのである。』かれらは、現代において万能の地位にいる。しかしその日暮らしであり、自己の歴史をつくることができない。」
19世紀に活躍したフランスの歴史学者でジュール・ミシュレという人がいる。歴史上最初となる『フランス史』をまとめたことで著名だが、政治的にはフランス革命から第二共和制への流れを支持する思想家でもあった。彼が『民衆』という本を書いたのは、それまでの歴史が王侯貴族の視点から記録されたものであり、絶対的多数の民衆が歴史に記録されていないことに対して異を唱えるとともに、歴史上の民衆の発見とその正当な評価を目指したものであった。
実際、このミシュレの歴史に対する態度は正しく、それまで無視されてきた民衆の歴史が、学問としての歴史学に導入されたことは偉大な成果であったと認められる。しかし、ミシュレは、王侯貴族が政治的には不甲斐ない存在でしかなかったと指摘する一方で、民衆を政治的に望ましい集団だと過信し称賛したことは、結果的に失敗であったと言える。つまり、民衆というだけで優れた政治家にならないことは、歴史を振り返らなくとも誰もがわかる理屈だが、ミシュレは、フランス革命以降の王侯貴族に反抗するというベクトルのみに注目したため、こうした間違いをしてしまったのだ。
しかし、そうしたミシュレ的観点から始まった「政治の中心としての民衆」というイメージは、ジャンジャック・ルソーなどの思想とともに大きく発展し続け、現在の世界の政治体制の基本となる民主主義の概念として、世界に広く浸透している。ところが、オルテガが指摘したように、民主主義の中心に位置させられた大衆は、政治に参加することが困難な人びとが大半を占める集団であった。しかし、政治家ならぬ政治屋たちが自らの欲望を実現すべく、大衆を巧妙に利用してきたその結果は、衆寓政治あるいは政治屋たちのポピュリズムという状況に至っているのだ。
そうした現状がある中で、オルテガの思想を貴族主義(エリート主義)というレッテルを貼って批判する人々がいる。そうした批判をする人々にとっては、自らの政治的主張をするために大衆=民衆の存在が必要なため、オルテガの思想にレッテルを貼ることで否定したいのだと思われる。
古くは、フィレンツェにおいてサボナローラによる狂信的な市政が実現したのは、サボナローラが「神の怒りがある」という予言をした後、偶然にこれを証明するフランスのフィレンツェ侵略があったため、多くのフィレンツェ市民がサボナローラによる宗教政治を支持したからだ。このフィレンツェの事例は、盲目的な民衆(大衆)が、サボナローラという狂信者の言葉(政治)を追認し賛同した結果であった(ポピュリズムである)。
また、ナチスは一部の政治的エリート(少数者)や強権的な勢力や暴力等のみによって成立したのではない。なによりも、公正な国政選挙において(ポピュリズムに訴えて)大衆の圧倒的な支持を得た上で、その後の独裁政権へと至る道筋を獲得した(そして独裁体制による強権や暴力が政治の中心となったのは周知のとおりである)。つまり、ナチスはドイツ国民(大衆、民衆)からの正式な同意を得た政治体制であった。このナチス支配の歴史的事実は、オルテガの予想が的中した一方で、ミシュレの素朴な民衆政治の限界を示したものであった。
現在の日本でも、民主主義の持つ負の面による弊害が生じ、過度のポピュリズムによって政治がおかしくなっているのは、誰もが指摘するところだろう。つい昨日までプロ(アマチュア)スポーツや芸能活動をしていた人たちが、突然に有能な政治家になることは限りなく不可能に近い。しかし、選挙が政策論争ではなく、単なる人気投票になってしまい、そうした人たちが知名度(TVで良く見る人)という基準で多くの票を得て当選することが日常になっているのは、さすがに正常とは言えない状態だと思う。
それから卑近な例を一つ挙げたい。国立競技場を改築する際に、経費が高額になるということで屋根付きドーム型スタジアムをメディアと世論が熱狂的に否定して(まるで魔女狩りのようだった)、屋根なしのより安価なスタジアムを作った。しかも、このごたごた(人災)により完成が遅れたため、2019年ラグビーWCの決勝に使用することができなくなるという被害が生じた。そして、大幅な遅延をした後に新国立競技場を完成させたが、経済的利益=維持費ねん出のための最も有効な方法である音楽コンサート等の開催を、密閉したドーム型でないため騒音公害や雨天による突然の中止があるなどの理由によりできなくなっていた。
その結果、国が高額な維持費を毎年支払い、さらにこれを継続した場合、危機的な赤字に至る事態に陥っていた。しかし、こんなことは建築計画作成時点で判明していたことである。それを、高額になるという理由だけで安易に否定してしまったポピュリズムの弊害なのだ。
ようやく2024年に、NTTドコモなどの企業に使用権を売却することで国の負担を軽減し、また音楽コンサート等に使用できる(大幅な収入を得られる)方途が見えてきたが、これは当初から想定できたものであり、目先の金額だけを見たポピュリズム(世論、メディアの報道)に迎合せずに、屋根付きドーム型スタジアムを完成していれば、なんら問題化しなかったばかりか、音楽コンサート等による大幅な収益による黒字経営=国庫の収入増が見込まれたものであったのだ。
つまり、ポピュリズムに迎合したために、当初から判明していた赤字を抱え込み、黒字化のチャンスをみずから放棄してしまった悪しき事例であった。(なお、新秩父宮ラグビー場をドーム型にするという案に、多数の反対意見がメディアを賑わせたが、新国立競技場の悪しき前例を踏まえてドーム型にしたのは英断であった。また、新秩父宮ラグビー場建設案と神宮外苑の樹々伐採問題を同列に論じたものがあったが、これは次元の異なる問題を無理矢理一つにしたものであり、まったくの論外である。)
他にもポピュリズムの事例を挙げたい。一時期TVのワイドショーでよく使用されたものとして、「普通の人の意見を代表する」として、政治について詳しいとは思われない芸能人を出演させ、その場の雰囲気に合わせた反応(あるいは、予め仕込まれた意見)を言わせることがよく見られた。これこそ、オルテガの指摘した「自己にも何物をも課すことなく、ただ現実的な利益をもとめて浮動する。」行動を、見事に体現して見せている。つまり、ここで登場する「普通の人」とは、オルテガが指摘した「大衆」を具現化した好例なのである。こうした観点から見れば、やはり、政治的にしっかりと教育・訓練された一部のエリートによって政治が運営された方が良いのではないか、と私は思ってしまう。
まったくの暴論だろうが、例えば参議院議員に立候補する場合は、一般教養を主体とした資格試験を課したらどうだろうか。そうすれば、本来の「良識の府」ということに近づけそうな気がするのだが。またこの強化した資格試験制度を、全ての選挙立候補者に実施するのが良いとも考えるが、もしもやり過ぎた場合は、共産主義国で行われているような不公正かつ恣意的な選挙になってしまうので、そのさじ加減がとても難しく悩ましい。
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