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<書評>ミシュレ『民衆』

『民衆 Le Peuple』 ジュール・ミシュレ Jules Michelet 大野一道訳 みすず書房 1977年 原著は、Librairie Hachette,Paris, 1846年

『民衆』

 フランス革命直後に庶民階級に生まれたミシュレは、その後コレージュ・ド・フランス(元王立高等教育機関、その後国立高等教育機関の頂点となる教育施設)教授に就任し、王族の家庭教師をするなど上流階級の学者となった。その中で、本書の他に『フランス史』、『愛』、『女』、『鳥』、『虫』、『魔女』、『人間の聖書』といった歴史書を残しているが、共通する観点は、フランスの歴史を形成してきた民衆の姿に焦点を当てた歴史書であることだ。

 冒頭にある著者ミシュレの自己紹介が面白い。ミュシュレは本書のタイトル通りの「民衆」の中に生まれ、しかも貧困家庭に育っている。しかし、父が印刷業者だったことから、幼少時から活字=書籍に親しむ機会があり、また両親の理解を得て高等教育を受けられたことが、ひとかどの歴史学者になれた契機であったと自ら記している。そして、この「庶民」と「上流」の両方の階層を生活してきた経験が、自身の研究成果に生かされることになったという。

 この経験は、(上流階級というところを除いて)部分的に私の半生に似ていると感じた。私は、東京下町の貧乏家庭に生まれ、父は病弱なためいつも仕事を休んでいたタクシー運転手だった。また、高等教育を受けることは不自然だという共通認識を持っている親戚に囲まれて成長した。そうした環境に馴染めなかった私は、昼間のアルバイトで親戚からの批判を交わしつつ、私立大学の夜間部に通った。大学では思う存分に文学の世界に親しむことができた他、高等学校までの教育では知ることができなかった、学問の楽しさを始めて味わえた。その後国家公務員となり、社会人としては中流の生活を送った。また、外務省勤務であったため、政治家や高級官僚という上流階級の仕事や生活を垣間見ることもできた。この私の経験からは、ミシュレのような偉大な成果を生み出していないが、それでも「肩書で人を差別しない」、「職業や社会的地位で人を判断しない」ということを、自然にできるようになったと自負している。

 ところで、最近の私の読書では、「これは良い!」と思った文章(部分)に、小さな付箋を貼り付けている。そして、この<書評>を作成する際には、付箋を付けた部分を抜粋して紹介することが多い。それは、(結果的にそうなることも多いが)本の主旨の要約を目的としているのではなく、私が主眼を置いている部分を強調するために紹介している。ところが、本書『民衆』は、この付箋を付けることがまったくなかった。「これは良い!」と思える文章や論述がなかったのだ。それはなぜか?

 最初に指摘できるのは、本書は、フランスが1789年の大革命を経た後、稚拙な政治理論による恐怖政治(まるで、スターリン・毛沢東・ポルポトのように政敵を含む多数の民衆を虐殺した)や王政復古を経て、次の望ましい政体を試行錯誤する時期に書かれたものということがある。つまり本書は、純然たる歴史書というよりは、ミシュレが「政治家」としての意見表明をするために使った「歴史本」であるということだ。

 そのため、本書におけるミシュレが「民衆」として描いたフランスの一般大衆の姿は、今から見ると参考になる部分もあるが、「民衆」を見る視点そのものがミシュレの政治的姿勢に依存しているため、歴史的客観性という観点からはどうしても素直に読めない部分が多くなってしまう。特に最後の章にある、望ましいフランスの政体(国家)を確立するための教育論については、もう歴史書ではなく、たんなる政治家のアジ演説を聞いているようで(実際、翻訳の仕方もあるが、ミシュレの文体は論文というよりも、聴衆に話しかけているように書かれている)、そうした文体は、19世紀中庸という(現代よりも文盲率が高かった)時代では有効な方法だったかも知れないが、今読むとなにか胡散臭いものが強くなってしまう。

 私はこれからミシュレの『魔女』を読む予定だが、どうもあまり期待できない気持ちになってしまった。私の「魔女」に対する関心は、社会学的文化的側面よりも、オカルト的錬金術的あるいは芸術・哲学的側面なので、ミシュレと私のベクトルの方向性はかなり違っている可能性が高く、『魔女』の読後感もがっかりすることが多くなるかも知れない。

 そういうことで、『民衆』の訳者による解説によれば、「偉大な歴史学者ミシュレの原点としての『民衆』は必読の書」と紹介されているものの、フランス政治史の中では重要文献となるのだろうが(第二共和政や第三共和政への影響が大きいと見られており、「ミシュレが作った」という評価すらある)、歴史の中に哲学的な思想を読み込みたい私としては、どうも不満足な感想となってしまった。(同時並行的に読んでいるニコライ・ベルジャーエフ『歴史の意味』も、キリスト教を称賛するプロパガンダ的な部分や前衛芸術に対する無理解はあるものの、そのマルクス主義批判は的確であり、また語り口は明快で、ミュシュレの徒に感情的な文章とは異なっている。)

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