<閑話休題>悪魔と自然の神について
フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』には、中世ヨーロッパで広く知られた悪魔の王の名がたびたび出てくる。それは、ベルゼビュートという名で、語源的には「蠅の王」という意味だそうだ。蠅は、昔から人類に嫌われてきた昆虫の代表であり、また腐肉などに多く集まることから悪魔のイメージに合っていたのだろう。また、悪魔的なもの(存在)の名前を言う場合、このベルゼビュートに続いてプロセルピナ(ペルセポネー)の名が続けて出てくる。彼女は、冥界の王ハーデース(プルートー)に見初められて無理矢理に妻にされた、ギリシア・ローマ神話の高名な女神である。しかしキリスト教によって、冥界=地獄の王妃(女王)と解釈されたため、悪魔的なものを象徴する名前の一つとなった。
その他に歴史上有名な悪魔の名前といえば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』に登場するメフィストフェレスがいる。彼は、醜悪かつ狡猾な悪魔というよりは、どこか人間的な生活感を漂わせるやり手の高利貸めいたところがある上に、ファウストに対して哲学や神学を議論できるほどの教養と頭の良さを持っている。さらにファウストに対して、どこか旧知の友人のような距離感のない話し方をするなど、妙な親しみを持っている(そういう観点からは、ファウストの「裏の人格」を象徴しているともみなせる)。
そして何よりも驚くことは、ファウストの心の状態を客観的に観察していながら、それに対して何ら特別な働きかけをせず(あるいは、働きかけができずに)、ファウストの破天荒な行動を観客のように見ているだけであることだ。また、自分自身に対してもこの客観的な視点による自省とすら思える言動を繰り返しており、最後には悪魔として自分は失格ではないかという韜晦した心境に至っていることは、まったく悪魔らしくない極めて人間的なキャラクターという印象を強くさせる(そこがまた、メフィストフェレスの憎めないところでもあるが)。
なお、このほか悪魔を意味する言葉にサターンというのがあるが、これはギリシア・ローマ神話の、サチュロスという下半身が山羊の姿をした古い神の名から来ている。キリスト教にとって自然は、文字通りに悪魔のような脅威であるとともに征服すべき対象であるため、自然という始原的な神から生まれ、その偉大さの一端を示す古い神であるサチュロスは、悪魔的なものを象徴する対象の一つにされてしまったのだ。
同様に、デーモンという言葉もあるが、ギリシア・ローマ神話における自然の中に存在している精霊であるダイモーン(また、ソクラテスにとっては哲学思想を与えてくれる「天の声」がダイモーンであった)から由来しており、サチュロス同様にキリスト教思想にとって、畏怖し遠ざけるべき異世界の強力な存在(生きもの)であったために悪魔視された。
なお、デヴィルという言葉もあり、ギリシア語のディアボロス(告発者、悪口を言う者)に由来するというが、語感としてはイーヴィル(不吉、有害、邪悪)にフランス語の接続詞deが付いて、母音字(e)が重なり省略(例ドゥ・オール→ドール)された言葉という印象が強い。また、同じギリシア由来といっても、サターンやデーモンとは異なるどこか政治的・社会的意味合いを強く感じるので、私はこの論考の対象から外させてもらうことにした。
この人と自然とを、ときには厳しく、ときには優しくつなげていた存在であるサチュロスとデーモンは、そしてこれらの王的な存在であった牧神パーンは、ちょうどキリスト教が発生した紀元元年頃に地中海世界から消えてしまった(「大いなるパーンは死んだ」と、多くの古代の文献が記録している)。それは、歴史的かつ因果的にはキリスト教の発生と結びつけられるが、私としては、キリスト教が誕生したために「パーンが死んだ」のではなく、人類発祥時から慈愛と恐怖を併せ持ちつつ常に身近に存在する親しい神であった自然が、文明の発展・深化とともに遠い存在になってしまったことに起因するのだと思っている。
そして、歴史とはうまく作られたもので、人が自然を崇拝しなくなるのと入れ替わるように、自然を敵視し征服する強い意志を持ったキリスト教が誕生したのだと私は理解したい。その後この自然を敵対視する思想は、中世末期の宗教改革(プロティスタンティズム)及びスイスを拠点にしたカルバン派によってより一層強固なものとなり、近代の産業革命や現在の資本主義を支える基盤となっている。(参考:マックス・ウェバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』及び『古代ユダヤ教』、ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』、及びエロティシズム』等)。
だからといって、私はジャンジャック・ルソーのように「自然へ帰れ」とか「原始的な生活を目指せ」などと主張するつもりはない。歴史は決して後戻りすること及びやり直すことはできないものだ。文字通り一回限りの刹那的なものでしかなく、もしかしたら存在しないかも知れない「理想とする未来」に向かって、目の前を見ながらただひたすら歩く選択肢しかないのだろう。
でも、生来天邪鬼の私は、時々後ろを振り返ってできなかったことを嘆き、見えないくらいに遠い彼方を漠然と眺めながら、とぼとぼよたよたと(他人から見れば、怠け者とか変わり者と批判されるが、そんなことは馬耳東風と聞こえないふりをしつつ)歩き続けてしまうのだ。
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