小説セラピー「風が聞こえる」(Aさんの物語)
思えば、人生は船旅に似ている。
初めて乗った船は、まるで揺りかごのように私を優しく包み込みながら、この世界へと連れてきてくれた。大きくて、優しくて、だから私は安心して目を開けることができたんだと思う。
目の前の世界は、美しかった。
ただ、不思議なことに、私はここにいるのに、目の前の世界には私がいなかった。
だから私は耳を澄ました。
どこからか、私の声が聞こえないかと。
旅は始まったばかりだった。私は人生とは自分を探すことが目的ではないかと考えた。だからきっと、海が荒れるように、人生は順風満帆とは言い難いのだ。
私の母は過干渉だった。
愛情だとは分かっている。けれども、その愛情は私に<いい子>の烙印を押し、そして私は母の船から振り落とされないように、必死で人の目を気にする子供に育っていった。
旅は続く。自分を見失ったまま。
私は大人になっていった。卒業、就職、幾度の出会いと別れ、突然吹きつけるいたずらな風をたくさん浴びて、愛の重さや生きることの感動を学んでいった。
気がつけば、私は両親の船から自分一人の船に乗り換えて、そしてある人の手を取って、共に航海をすることを誓い合った。
結婚、そして、出産。
日々は流れていく。それは凪いだり、荒れたりと、忙しくもあったけど、楽しいものだった。それでも、本当の私はまだどこにもいなかった。
いつも周りの人たちが羨ましかった。
ある日、ようやくできたママ友達の一人がこんなことを言った。
「あなたは毒にもならないけど、何を考えているかも分からない」
私の中の<いい子>が、波に飲まれた。
当時、私には夫も子供もいた。しかし、私は自分の船がハリボテだと気がついてしまったのだ。いや、本当は知っていた。知っていたけれど、認めるのが怖かった。でも、それは違った。
自分を隠し続ける世界は、暗闇と同じかもしれない。
暗闇では誰の声も、自分の声さえも届かない。
私は声が聞きたかった。
「あなたは大丈夫」
「あなたはあなたのままでいいから」
と。
嵐の前の静けさだろうか、次第に私の心が凪いでいくのが分かった。私は夫のことも、自分のことも嫌いになっていき、心に穴があいたように、気力がなくなっていった。何十年も放置していたボロボロの船に、嵐を耐える力など、もうなかった。
私は離婚した。
それはまさしくゼロからの再出発だった。頼れる人もおらず、ただひたすら仕事に没頭した。その間だけは、子供の将来を心配する自分すらも忘れられた。
しかし、働けば働くほどに、心が凪いでいった。
ふと、私は自分を変えたいと思った。なぜそう思ったのかは分からないけど、もしかしたら、またいたずらな風が突然吹いただけだったのかもしれない。しかし、私の船は確かにもうボロボロで、これ以上の航海はきっと無理だったと今では思う。
私は心理学の門を叩いた。
そこはまるで宝島だった。私は羽の伸ばし方を覚え、自分の声を聴く技術を学び、そしてようやく気がついたのだった。
自分はここにいる、と。
溢れる涙を止められず、私は長い間その島に滞在した。その間、たくさんの人と出会い、たくさんの言葉をもらい、そしてたくさんの温かい声に触れた。私は今まで、ずっと自分を押し殺して生きてきた。そんな私が、ようやく自分らしく生きられると思った。
人生において大切なのは、人との繋がりだ。
私の心に少しずつ波紋が広がっていった。私は素直にその感動を他の誰かに伝えたいと思い、ようやく帆を張って、船を漕ぎ出した。
自分の声を届けたい。
今度は自分が寄り添いたい。
学んだ心理学を活かして、人と人が繋がれるサロンを作ろうと考えたのだ。
しかし、コロナの波。
私はサロンを諦めた。また世界が暗闇に閉ざされていく気がした。
私の声は届かないのだろうか。
そんなときに、救ってくれたのも、やはり人の繋がりだった。
ある人にラジオアプリを紹介してもらい、私はなんとなく始めてみることにした。
しかし、所詮はネットの世界だ。私は少し否定的だった。その世界にはきっと私の求めているものはないだろう。それでも、という軽い気持ちでやってみると、そこにはたくさんの声が、それはまるで灯台の光のように、暗闇の海を照らしていたのだった。
気がつくと私はラジオの世界に没頭していた。そこでは数々の出会いがあって、そして私の心に温かい風が吹いた。
ある日、ラジオで知り合った人からこんなことを言われた。
「あなたは船の錨だ」
その瞬間、私には聞こえた。
「あなたがいてくれて、よかった」という、声が。
人に寄り添うということは、カウンセリングだけじゃない。例え世界が暗闇に閉ざされても、声は届く。誰の声でも、どんなに小さな声でも。
風の音が聞こえる。
私は自分の声を聞く。心には風が吹いている。
航海は波乱万丈だ。
でも、もう大丈夫。
私の声の先に、光り輝く灯台が見えるから。
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