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【短編小説】マイホーム

 私のキーホルダーにはもう三十年ほど使用していない鍵があります。
なぜ使わないのに大切に持っているかというと、私にとって一生忘れられない鍵だからです。
 それは私の生涯で、最初で最後のマイホームの鍵なのです。

 私は29の時、中学の同級生と結婚しました。翌年に長男が生まれ、その2年後には長女を授かりました。決して裕福ではありませんでしたが、子供にも恵まれ、順風満帆の家族生活だったと思います。
 長男が小学校にあがる歳になり、さすがに新婚当初から暮らしていた1DKのアパートでは限界で、散々検討した結果一軒家を購入することに決めました。生まれた時からずっとアパート暮らしだった私にとって、一戸建てのマイホームは夢であり、憧れでした。都心からやや離れた場所ではありましたが、良い物件が見つかり、ついに購入することができました。通勤時間が今までの倍になりましたが、それを苦に感じたことは一度もありません。まさに夢のような時間の連続でした。
 しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。長男が私立高校に進学することになり、ますます仕事を頑張らなくてはと思っていた矢先に勤務先が突然倒産してしまったのです。お恥ずかしいことに私は、そのショックで病に倒れてしまいました。長期にわたり入院することになり、やっと手に入れたマイホームを手放すどころか、妻と子供たちとも別れなければいけなくなってしまいました。全てを失った私はそれ以来、孤独な病院暮らしとなったのです。
 
 あれから30年が経ちました。私ももうこの先そう長くはないでしょう。最後にもう一度、かつてのマイホームを見てみたい。この鍵を見るたびにその思いは強くなりました。既に取り壊され、別の家が建っているかもしれません。開発により、道路になっているかもしれません。それでもいいので、人生の最後にもう一度あの場所を訪れてみたい。かつてのマイホームがあった場所を目に焼き付けたいのです。

 意を決して私はかつてのマイホームがあった場所へと向かいました。
東京駅を経由して3時間。ようやく最寄り駅にたどり着きました。改札を出ると、降りる駅を間違えたかと思うほど、当時の記憶と景色が変わっていました。私は困り果て、駅前の交番に行き、住所を述べて道を教えてもらいました。住所は今も存在しているようでしたが、この変わりようではあの家は跡形もないような気がして、引き返したくなりました。でもせっかくここまで来たのだからと重い足を引きずるようにして、なんとか歩みを進めました。そしてついに次の角を曲がれば目的地、という場所まで来ました。何度も何度も深呼吸をして、やっとの思いで最後の角を曲がりました。
 すると……
「あ、あ、あ……」
 私は声にならない叫びをあげていました。
ありました! 私のマイホームが、そのままの形で残っていたのです。
 三十年の年月でそれなりに劣化はしているものの、玄関前には手入れの行き届いた綺麗な花が咲く鉢植えがいくつも置いてあります。
 きっと私たちの後にこの家を購入された方が、しっかりと手入れをされているのでしょう。私は嬉しさのあまり、涙が止まりませんでした。そして、これまで大切に身に着けていた鍵を握りしめました。
 この鍵も家が健在でさぞ喜んでいるだろう。
 そう思った時、鍵をもう一度鍵穴に差し込んであげたいという思いが浮かんだのです。
 入るはずはありません。でも、人通りが少ない郊外の住宅街が私を後押しし、気付いた時にはそっと鍵穴に入れていました。
 すると、鍵は難なくそのまま穴に吸い込まれていきました。
「まさか……」と思いながら私は、そのまま右に回してみました。

「カチャッ」
 なんと鍵が回ってしまったのです。手が震え出しました。
 そしてその震える手でさらに扉を引いてみると、
「カタッ」という小さな音をたてて扉までが開いてしまいました。
 中を覗くと、久しぶりに見る風景に、懐かしさで既に私は我を忘れていました。
 そのまま私は靴を脱ぎ、玄関を上がって私の部屋だった2階へと、階段を一段一段上っていきました。
 部屋に入ると当時のことが次々と思い出されてきました。妻と子供たちとの夢のような日々。今頃みんなどうしているのだろうと思ったその時、
「カタッ」
 先ほどと同じ音が下から聞こえてきました。そこで私はやっと我に返りました。
 まずい。私は何をしているのだろう。勝手に人の家に侵入し、これは犯罪じゃないか。
 気が動転して、どうしたらいいかわかりませんでした。階段を上がってくる足音が徐々に大きくなり、私の耳に迫ってきます。
 そして部屋のドアが開きました。

「すみません! すみません! 悪気はなかったのです。私は最初にこの家を購入したものです。懐かしくなって、つい。本当なんです。許してください。信じてください」


「お父さん、一人で帰ってくるなんて、少しは良くなったのかしら?」
「僕を見て許してくれと言いながら気を失ってしまったんだ。良くなったわけではないだろう」
 藤田良一は三十年前、勤務先が倒産したショックで病に倒れてしまう。
過去の記憶はあるが、病を発症してからは、自分が誰であるかもわからなくなってしまった。妻の由美子は良一を施設に預け、昼夜働きながら、
良一の治療費と家のローンを払いながら二人の子供を育てた。
 由美子は今日の昼過ぎ、施設から良一がいなくなったという知らせを受けた直後、警察署から家の近くで良一らしき人物を見たという情報が入り、急いで勤務先から自宅へと戻った。
 由美子からの連絡で長男の直人が一足先に帰宅した時、家にいた良一と顔を合わせたのである。

「父さんの家だし、ここにいるのが一番幸せなんじゃないかな」
「そうね。体が元気なだけでも幸せと思わなくちゃね。少し大変になるかもしれないけど、また一緒に暮らそうか」
 由美子と直人が話していた時、結婚後の新居を自宅近くにした有希が息を切らして部屋に入ってきた。
「お父さん帰ってきたんだって?」
 
 三十年ぶりに家族四人が揃った。

〈了〉

 

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