どろ人間のわたしたちが、生きる意味
わたしたちは、みんな泥にまみれたどろ人間なんだって、最近気付いた。
泥っていうのは、産まれてから大きくなるまでに、自分がそれと知らずに身にまとってしまう、ネガティブビリーフ、ネガティブマインドのこと。自分に不要な思考や執着の塊。 そんなんを、たくさん身にまとっているのがどろ人間。
自分を育ててくれる親自身も、どろ人間。学校の先生も、聖者ではないからどろ人間。親戚も、友だちも、みーんなどろ人間。
だから、わたしたちが、物心ついて大人になるころには、みんな立派に泥をまとった姿で、この世を生きている。
それもそのはず、産まれてすぐ親密な関係を築かざるをえない親自身、いろんなネガティブな執着や思い込みの泥にまみれて、その泥を身にまといながら、子育てをする。
彼らも、彼らなりのベストを尽くして子育てをしているのだ。 ただ、いくらベストを尽くしても、その行為には泥がまみれてしまう。 よかれと思って施した善意にも、子どもにとっての泥が混じっている、ことがある。
一滴の泥もついていない状態で産まれた子どもは、その親の泥まみれの施しを「愛」と思って受け止める。何もわからない子どもは、「いや、それ泥まみれだから、受け取れないよ」とは、ならない。
すべてを親の愛だとして、正面から受け入れる。 美味しい美味しいと、飲み込んで、血肉とする。体と心、頭のすべてで。
そして、その子自身も、どろ人間と化していく。
気付いた時には、泥まみれの自分がいた。
周囲の人々も、一様に泥にまみれている。 互いの泥をぶつけ合って、生きている。
泥を身につけていると、安心なのだ。
泥が自分を守ってくれるから。
だから、泥を身に付けていないと、みんな不安になる。
でも、それは錯覚。それは、やっぱり泥でしかない。
だから、
自分が泥にまみれている、と、気付いたら
泥まみれの自分は本当の自分ではなくて、産まれてから、不覚にも身に付けてしまった泥だと、気付いて、
身にまとっていた泥に、「ありがとう」「これまで、わたしを守ってくれていたんだよね」
と、そう伝えて、少しずつ、泥を水に流して、落とす作業に入りたい。もうこの泥は不要なんだ、洗い流しても、怖くない。そう覚悟を決めて。
自分の泥を落として、同じく泥にまみれている親の泥の内に存在する、彼らの本来の姿を見とってあげて。
もう、その泥は、不要だよと、そこはかとなく、伝えてあげられるといい。
泥を洗い流した、その奥底には、本来の人の姿の形をした光輝く石ころがあるんだ。みんな同じ成分でできている。
それが、きっと、「愛」。
そう考えると、アダムとイブの生まれながらの原罪という考え方がストンと落ちるなあ。
私の母親が、年老いて子どもに戻っていく私の祖母を介護している。祖母の泥がどんどん落ちていって、純粋な本来の石ころがたまに顔を出すようになってくると、母は戸惑っているようだ。でも、きっとこの泥を落としていくプロセスこそが、人間の生きる意味。
私たちはみんな、一度、泥にまみれて、そこから、その泥を払い落としながら、どんどん本来の姿を取り戻すために、生きている。それが人の一生。
人生は、一生をかけて自分を愛する旅なのだ。 本来の自分を取り戻すための、旅。
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