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140字小説/「君の耳に夏」

手を引かれて家を出た。空には入道雲、真っ青な空はどこまでも遠くに続いているようだった。歩道を歩けば街路樹が影を作るが風が吹けば無くなってしまう心許ない影だった。それでも私を押し込むかのようにそちらに行かせ、自分は日の当たる場所を歩く君の優しさが感じられて目を細めた。

君に会ってから何度目の夏を共に過ごしただろうか。永遠を連れ添うにはまだ短く、青春を過ごすにはとても長い時間を共有してきた。それでも、この夏は過去よりもずっと異例なものである事はお互いに理解出来た。

道路を走る車から漏れ出す排気ガスの匂いがやけに鼻についた。ずっと先にある信号は緑色、けれど揺らめいている。あまりの暑さに蜃気楼が発生しているようだ。

頭上からは蝉の鳴き声が聞こえる。繋いだ手の平からどちらか分からない汗が滲んだ。横目に見れば君のこめかみに汗が流れる。ツンツン頭はどこか元気がなかった。昨日切ってきたばかりだというのに、汗のせいだろう。暑さ、蝉の鳴き声、直射日光、全てに嫌気が差したのか君は一つ舌打ちをした。私は呆れて溜息を吐く。相変わらず人相が悪いのだ君は。

マスクが表情を隠してもその下でどんな顔をしているかは簡単に分かる。だってマスクをしていない君の表情を見てきた時間の方が多いから。きっと早く屋内に入りたいのだろう。私も同じ気持ちだ。

首筋に汗が垂れ、鍛え抜かれた肉体を覆う黒いTシャツに染み込んでいく。その姿が妙に扇情的で、私は思わず目を伏せた。しかしそれに気づいたのだろう。君は意地の悪そうな顔でこちらを見て笑いながらからかってきた。

「今何考えてた?」

「何も?」

「何も考えてない人間の顔じゃなかったけどな」

ほら、絶対ばれてるのだ。思えば昔から君に隠し事が出来た例がない。だっていつも気づかれる。

「汗、拭きなよ」

話題を変えるためつないだ手を離し鞄の中からハンカチを取り出してこめかみに当てる。君はそれを受け取ったが、軽く拭ってポケットに仕舞いもう一度手を握った。

「熱くないの?」

「熱いに決まってんだろ」

「じゃあ離してもいいんじゃない?」

「離したいって事か?」

「そういうわけじゃないけど」

夏は残念ながら、君に触れたいのに触れる気を失くす時期でもある。君は私と違って体温が高いから近づく事で暑さを感じて思わずヴっとなってしまうのだ。冬場はその逆だけれど。

それでも、少しでもくっついていたいと思うのは私のわずかな乙女心だろうか。じゃあいいだろとぶっきらぼうに言って握ったまま歩き出す君に、どこか安心してしまう。

八月末、この夏ももう終わる。

思えばいつも通りの事が出来ない時間だった。友人たちと集まる事も、海に行く事もプールに行く事も、花火大会だって無くなった。悲しんでいた私を見かねて君が市販の花火を買ってきてくれたけれど、やっぱり本当はお祭りに行きたかったのだ。我慢だって分かっているし、そもそも開催していないし、君の優しさが嬉しかったけれど。また浴衣を着て二人で歩きたかったのだ。


いつもと違う時間を過ごすと、自分の嫌な所ばかり目についた。君の嫌な所も目についた。それでも好きで好きでどうしようもないけれど、衝突が増える度に来年も同じ季節を過ごせるか不安になった。些細な言い合いで、最後が来たらどうしようと怖くなった。私たちはずっと前に、明日が当たり前に来ない事を知ったから。余計に、君がいない明日が、季節が、来年が来てしまったらどうしようといつもよりも不安になる事ばかりだった。


良くないと分かっているけれど、こんなご時世だからだろうか。同じような感情を抱いている人も沢山いて安心感を得ると共に、早くこんな時代が過去になればいい事を願った。

今だってそう、この手が来年、自分の隣から消えてしまう恐怖が密かに存在している。

よくない、よくないぞ私。頭の中で自分を叱咤していると不安になってしまったのが出たのだろう。繋いだ手を一瞬、強く握りしめてしまった。驚いた君は足を止めてこちらを見る。目が合って、あ、感情を読まれたと気づくのに時間はかからなかった。

「心配すんな」

それだけ呟いて君は再び歩き出す。呆気にとられた私は引っ張られるまま後に続く。背中にはシャツが張り付いている。昨日切ったばかりの髪から耳が良く見えた。その耳は赤く染まっていて、君の照れた時に出る癖に気づき私は小さく噴き出した。

「何だよ」

「何でもないよ」

「突然笑ったろ」

「うん、夏が残ってるなあと思って」

「まだ夏だろ」

「もうすぐ終わるよ」

「どういう意味だよ」

耳先に、と小さく呟いた声は聞こえなかっただろう。

君の耳に、まだ夏が残っていた事に気づいた私は先程までの不安感など忘れ君の一歩先を歩きだす。早く屋内に入ろと言って駆け出した私に転ぶなよと心配しながら腕を引かれる君は、確かにあの頃から変わらずに存在した愛の形だった。

きっと来年も、同じ姿を見れると信じてはにかんだ。



140字小説/「君の耳に夏」


入道雲、青が遠くまで続き蜃気楼が揺らめく。排気ガスが鮮明に匂い蝉の鳴き声滲む汗も照りつく光も全てが煩わしい。けれどこの夏ももう終わる。
来年も君と過ごせるだろうか。来年こそは花火を見に行けるかな。不安になり熱い手を握れば君は心配するなと呟き歩き出す。その耳にはまだ夏が残っていた。

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