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PAIN & GLORY #39 向見ずにならない

早起きして諸々やることを済ませて、コーヒー飲みながら日本でのイベントについてあれこれ考える土曜の午後。いやー有意義、すごい充実感。毎日早起きして、身体動かすに越したことないなーって、やった後はいつも思う。

やっぱり自分は、何かを企画してそれを成功させるために色々気を回して動くのが好きだ。でも絶対に譲れないのは、どんなイベントであっても

      "必ず自分も楽しむ"

ということだ。これを蔑ろにしてしまうと、どんな盛大な事をしてても途中で虚しさのようなモノが押し寄せてくる。そうなってくると、いよいよ自分の時間を割いてまでやる意味も感じられなくなってしまうので、ボスに教わった

  "人を楽しませる為にまず自分が楽しむ"

という心得を遂行したい。

ここ最近は忙しい中でも自分を見つめ直したり、現状を整理する時間がキチンと取れている。カンボジアに来て5ヶ月目で、今の自分にできることや必要なこと、やるべきことがわかってきたような気がする。

先日Netflixで話題の『サンクチュアリ -聖域-』を観た。まとまった時間が取れなくて途切れ途切れだったが、正直自分的にはそこまでハマる要素はなかった。強いていえば忽那汐里がどタイプというくらい()。物心ついた頃には映画やドラマで活躍していた印象だったが、実は自分と大して歳が変わらないと知ると、カンボジアで「まだまだ若いね」と言われることに甘えそうになる自分を戒められる。

自分って成長してるのかなって
不安になることばかりだけれど
いつまでも子供の心を忘れない大人でいたい。

そして今日ふと思ったことがある。自分が思い付いた神がかり的なアイデアだと自負している事を否定されたときに、人間という生き物は凄く負の感情を抱きやすい。

それにはいくつかの理由がある気がするが、注目したいのは

   "そのアイデアを思いついた瞬間
   他の手段を考える事をしなくなる"

ということだ。目の前に降ってきたをモノ手に取り、それが絶対的正義だと信じ込んでしまう。こんな経験、言語化できてなくてもきっと誰しもがあるんじゃないだろうか。

だからこそ目的を再確認して、それが本当に正しいか否かを精査する必要がある。もちろん自分が間違っていたと、認めなくてはならないケースもあるだろう。ただそれは自分自身を否定するわけではなく、新しい可能性の扉を開くための、いわば成長痛のようなモノだ。
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最後の4段落ぐらい、全部太字にしたいレベルで良い思考(伏線回収)。

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