人から絶望を知り、人から希望をもらった
私が初めて絶望を感じたのは、幼少期の頃。
家族の強い口調や、友達同士の噂話など、受け取りたくない情報を遮断できず、ただただ嫌悪感を抱いていました。
何も考えずに、休み時間になったらドッチボールをして遊んでいればいいだけなのに。学校が終わったら友達の家で一緒にゲームをすればいいだけなのに。
「生きている意味ってなんだろう」。気付いたらそんなことばかり考えていて。人間の存在意義を追いかけ続け続けないと、自分を保てなかったのです。
幼少期は絶望がデフォルトだったため、当時はいろんなものを素直に受け取れていなかったのでしょう。あらゆる言動を皮肉だと思ったり、自己中心的だと思ったり。
だから私は、人と深く関わるのが好きではなかったんだと思います。
絶望から救ってくれたのも人だった
わけもなく“絶望感”を抱いていましたが、救ってくれたのはいつも「人」でした。
私が「ほしい」と明言したわけではないのに、些細な気遣いをしてくれる人がいたり、居場所を作ってくれる人がいたり。
沈黙したまま、何気ない優しさを向けてくれる人が、実はたくさん存在している。だんだんと、そう思えるようになったのです。
あるとき、私は大学で所属していたコミュニティに顔を出せなくなっていました。すると、ある先輩が私を少人数の飲み会に誘ってくれたのです。
私に気を遣わせないように、きっとさりげなく声をかけてくれたんだと思います。
先輩の家で朝まで飲んだ後、私は始発電車で先輩の家を出ようとしました。すると、駅まで送るよ、とさりげなく着いてきてくれた先輩。
早朝、雪がちらついている駅で、温かい飲み物を渡してくれました。
そして、いつの間にか電車が来て、「一緒に飲めて良かったよ。また飲もうね」と一言だけ残し、去っていきました。
そこにはなんの押し付けもなく、ただ温かい飲み物と、電車の足元から送られてくる温かい風だけがありました。
しんしんと雪が降る日に、こんなにも温かい気持ちになったのは初めてかもしれません。
希望はいつも、ささやかな優しさの中にある
私たちが救われる瞬間は、決して大きな出来事が起こるわけではありません。むしろ、希望はささやかな日常の中にこそ潜んでいるのでしょう。
何気なくかけられた「無理しないでね」の一言。私の大好きなお菓子をさりげなくデスクに置いてくれた同期。
そして何よりも、いつも笑顔で接してくれる家族や仲間たち。人生に何も意味がなかったとしても「ここで私は生きていたい」。そう思えるようになりました。
私の決断を否定せずに見守ってくれた人たちがいたからこそ、私は私の存在意義を「どうでもいい」と考えられるようになった。
人に絶望していたあの頃よりも、ほんの少しだけ優しくなれた気がします。そして、その優しさが、たくさんの人に連鎖していくことを願っています。
絶望と希望は、人とのつながりの中で生まれる
「絶望」という感情は、優しやさ愛情が過剰になって生まれたものかもしれません。心から人間を憎むことなんて、ほとんどないだろうから。
受け止めきれないほどの愛をもらったとき、それを床に落としてしまう。そんな姿を見た人が絶望してしまい、生きがいを失ってしまう。
だからこそ、愛を与える側も、相手が受け止められるだけのキャパを知った上で向き合う必要があるのではないでしょうか。
そして、人との関わりの中で感じた絶望も、希望も、すべては私たちが他者とつながっているからこそ生まれるもの。
人を深く傷つけるのも人間。それを救ってくれるのも人間。そして、深く傷つけてしまった人間も、きっと愛情深いだけだったのかもしれない。
そんなふうに思うと、はじめから世界は愛に溢れているのではないか、などと考えてしまいます。
実際はそんな綺麗事は存在しないだろうけれど、人を傷つけたくて攻撃してくる人は少ないだろうから。不器用な人も、無言の温かさで包み込んであげられる人間で溢れたら、世界は平和になるんだろうなぁ。
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