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アンコール・ワット

午前5時半、真っ暗な密林を進む車内。
車とトゥクトゥクの灯りだけが通り過ぎていく。車の速度よりもはやく空の色は変わり、ジャングルの輪郭が見え、木の一本一本が見え、その根が絡み合う様子を目で捉えられるようになった。と思えば次の瞬間にはさらにものすごい速さで夜が明けていく。
気づけば拓けた場所に停車し、見上げた空にはすっかり星は見えない。広がるのは青白いマットな空だけだった。
ACの効いた車から降り、体を包む空気は人肌に触れるように温かい。まだ汗ばむほどの暑さではなくて、昨日買ったmade in Cambodiaのペラペラな衣服がサラサラと穏やかな風になびく。

既に多くの観光客が遺跡に向け歩き始めている。参道はまっすぐに伸び、左右には熱帯モンスーン気候特有の鮮やかな緑色が広がる。一歩進むごとにトゥクトゥクや車が排気するガスの匂いは消え、気の良い世界に入っていく。鼻を通るのは湿った緑の匂い。空気の心地よさは伊勢神宮に似ている。

第一回廊の手前では多くの人が日の出を待っていた。ちょうど良さそうな岩の上に腰掛け、その時を待つ。人種も国籍も様々な人間たちが世界中から今日ここに集まり、私たちは同じようにこの景色を美しいと思える感性を持っている。土地や人や時間と繋がる感覚。やはり私のホームは日本ではなく地球だと思う。私は2024年を生きているのではなく世界を生きているのだと思う。だってこんなにも落ち着く場所が、いま初めて来た地にあるのだから。そういえばメキシコの海岸で石段に腰掛けて夕日を眺めているときも、こんな気持ちでこんな空気感を感じた気がする。

こんなにも空は明るいのに、なかなか日の出は訪れない。日が昇るまで少しタイムスリップをしよう。

目指すはアンコール・ワット。
ヒンドゥー教寺院としての参拝に、あるいは仏教寺院としての参拝に、あるいは美しいレリーフを臨みに、あるいは戦闘に適した拠点の占拠に、あるいは立て籠もる敵を落としに、あるいは戦闘のさなかその一場面をフィルムに収めに、あるいは。

どうしようもなく人を惹きつけてしまうものというのは、世界にいくつか存在する。そこにあるのが息を呑む絶景であれ、長い歴史を持つ建造物であれ、何かに優れた人間であれ、死の危険であれ、あるいは何もなくとも、ある種の人間はそこへ向かうことを避けることができない。

アンコール・ワットはそういう場所の一つだったし、私はそういう人間のひとりだった。

乱れに乱れた時代。戦闘のさなかこの町を訪れ、そして二度と帰国の叶わなかった日本人がいる。私とほとんど変わらない年の青年は、きっと惹きつけられた。

結局のところ、本当の胸のうちは彼にしかわからない。彼にもわからないかもしれない。けれど想像せずにはいられない。

戦争の残酷さ、平和への祈り。それを伝えるという使命を、戦場カメラマンやジャーナリストに与えるのは簡単だ。でも本当にそれだけだろうか。

私は彼らの記した文章を読むとき、彼らの語りを聞くとき、その奥にある衝動に、共感を覚えずにはいられない。

行きたいんだ。

美しい場所でも、危険な場所でも、自分の足でそこに立ち、自分の目で見たい。生き急いでいるわけでも、死に急いでいるわけでもない。恐くないわけでもない。ただ生と死を間近に感じることで興奮を覚えることは否定できない。そういう性だ。

危険の程度に差こそあれ、そういう衝動に覚えがある自分が恐くなる瞬間がある。

いつも、旅の理由を聞かれたら旅をするためだと言ってきた。その根本には衝動があった。旅の満足度が高いのも、衝動のおかげだった。それがなくなったとき、私の旅の目的は何になるんだろうか。それとも一生なくならないのだろうか。

行きたい、見たい、知りたい、この魂が燃え尽きないのであれば、100年でも1000年でも、生きられる気がする。

またひとつ行きたいが叶って、私の好奇心が1mmも色褪せていないことに安堵した午前6時、アンコール・ワットに太陽が登る。


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