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食の好みも、男の好みも、歳を経るごとにヘルシー志向になる。

私が鑑賞していた2020秋ドラマについての記事を細々と書き進めて参りましたが、

今回がその最終回。ということで、今日は日本テレビ水曜10時の『♯リモラブ~普通の恋は邪道~』を取り上げます。

アラサー恋愛弱者を演じさせたらピカイチの波瑠。恋愛という営みに対して、逆説的・否定的に示しながら、その尊さや温かさを提示した作品でした。

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波瑠演じる産業医の美々先生は、出会った男性を逐一食べ物に例え、自分はいつか極上のステーキに巡り逢えると信じている。私には極上のステーキが待っているからと、これまで付き合った、回鍋肉やぶり大根やざる蕎麦(並)やハンバーグ(チンするやつ)の男達をことごとく振って来た。

でも、食の好みって、年齢と共に変化します、よね。

私の場合、「肉だけ食ってろ」と言われて育った為か、小学生の頃まで一切緑色の野菜を口にしなかった。完全なる食わず嫌い。小学5年生の時に病気で入院して以来、徐々に野菜を食べる様に心掛けていたが、やはり好きになれなくて(胡瓜もブロッコリーも味が無いじゃん、という)野菜からはどんどん箸が遠のいて行く。中学時代、母は私の好きな物だけお弁当に詰めていたので、蓋を開ければ黄色(卵焼き)・茶色(肉)・赤(プチトマト)・白(米)の色どりのよろしくないランチボックスしか私には記憶が無い。

大人になってからも野菜嫌いは続き、24歳の頃、当時付き合っていた彼氏から「野菜食べないと死ぬよ」と、根拠のない脅しを受け、大戸屋ランチ定食の、かぼちゃコロッケに添えられたキャベツをしくしくと泣きながら食べたものです。

そんな私ですが、25歳を過ぎた頃からかな、自然と身体が野菜を欲する様になった。ああ、何か野菜食べたい、って。そして、お洒落にサラダボウルなんぞ注文してみる。何が食べたい?と聞かれたら、中華かパスタと答えていたのも20代の前半まで。20代の折り返しを迎えてからは、「和食」と答える割合が8割を超えている。健康に気を遣って意識的にその選択をしているのではなく、身体から、胃腸から、声が聞こえる様になった。野菜が食べたい、と。

もうこれはね、歳としか言いようがない。身体がね、あっさりしたものや私に優しいものを求めている。刺激的なものは確かに美味しいけれど、どうしてもハイリスクであり、それよりはマイルドでヘルシーなものを要求している。

男の好みについても同様である。

私の場合、V6で言えば、三宅健からの岡田准一からの井ノ原快彦という変遷を辿っているし(好みの話)、スラムダンクで言えば、みっちゃん一筋だったのに、今は専ら木暮くん推し。木暮一択。何というか、格好良い・男らしいといったことの価値よりも、相手とのリアルな生活を意識する様になった為かもしれない(私がイノッチや木暮くんと実際に生活を送れる訳ではないですが)。食べ物と同じ様に、脂っこいイメージの男性から、マイルドでヘルシーそうな男性を好きになっていますよね。

『♯リモラブ』のあおちゃんについて、私は前回の記事で「横に添えられたキャベツと見せかけて、実は豚カツ」と書いたが、これを訂正したい。やはり彼はキャベツだった。キャベツに違いなかった。でも、それで良いじゃない。キャベツで良いじゃない。

だって、ステーキをね、私達は毎日は食べられない。胃もたれしてしまって仕方がない。これから30代、40代になり、自分の身体と長い付き合いを続けて行くことを考えた時、毎日ステーキだったら飽きるし。でも、キャベツだったら、無限に食べられるし。自分で如何様にも味変出来るし。

まあ、「この先の人生、ステーキとキャベツとどちらかしか一生食べられないなら?」と聞かれたら、キャベツと答える自信は全然無いけれど、でも確実に、キャベツを欲する瞬間が訪れるし、野菜を摂らないと身体に支障を来すだろうし、豚カツには永遠にキャベツが添えられ続けるはず。絶対的な意味があるから、あのキャベツは存在している。なくならない。いなくならない。

このドラマは、大桜美々という、極上のステーキの様な男性を求めていた一人の女性が、キャベツだって良いじゃない、ということに気が付くまでの過程を描き出したものだったのではなかろうか。

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私達はしばしば囚われる。より顔の整った男性を、より背の高い男性を、よりスペックの備わった男性を。でも、自分が認めた相手なら、周りにキャベツと思われようが、サイコロステーキと思われようが、牛丼(並)と思われようが、その彼で良いのだ。その彼が良いのだ。

キャベツ男子のあおちゃんは、穏やかさや優しさで生成されている、本当にあっだげえ男。マメで一途でいつだって尽くしてくれる。受け止めてくれる(しかし、こういう男は、大概自分に自信が持てないからこそ相手に尽くしてしまうのであって、あおちゃんも束縛の傾向が強いかもしれないことを、私は勝手に危惧している)。

ここまで私も料理や他の男性に例えて話してしまったが、何某かに例える=その人をカテゴライズするという行為でもあり、この人はそういう人と定めることで、自分を守っているのかもしれない。美々が食べ物例えを止めた時こそ、青林風一その人自身を見る様になった時かもしれない。

美々先生は、あおちゃんをキャベツと認めそれを受け容れつつ、彼がキャベツなら私がフレンチになれば良いじゃない、と意気込んでいた。でも、美々先生は自称フレンチなのかもしれないが、それはあくまで自称であって、彼女は多分フレンチじゃない(私の頭にはヴィシソワーズがぽっと思い浮かんだのだけれど、どうだろう)。美々先生には、フレンチじゃない自分も認め受け容れることを、ぜひ許して頂きたく思う。

話を聞いてくれる人がいる。話してくれてありがとうと言ってくれる人がいる。相手の言動をいちいち深刻に受け止め、いちいち一喜一憂する。好きな人の為に一生懸命になり、時には無理をする。自分のことを素敵な人だと、好きな人だと、きっぱりと断言してくれる人がいる。

2人の距離の詰め方が余りにも遅々としていて、お前ら中学生か!と突っ込みを何度も入れながら、ほとほと呆れながらではあったけれど、そんな恋愛初期のあるあるが、今の私には心底羨ましくてならなかった(クリスマスプレゼントはキスだよって言われたら殴るけど)。

ただ、最終話の「わかり合えなくても良い」という結論には、うーん。ただ、言葉にしてないだけじゃん、と。何というか、最後まで悩みの内容や喜びのポイントが幼いまま、次元が低いままに終始してしまった感は否めないなあ。

そう、最後に気が付いたのだけれど、今作、既婚者が一人も出て来ないのです(たぶん)。故に、学生のノリのまま、リアリティが薄いまま、同僚達との会話が展開されていたのかも。

恋は上辺で出来るけど、愛するには深く知り合わないとならない。それは確かだよね。

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