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シャットアウトした感情、ただいま取り戻し中


嫌なできごとがあったときや、ネガティブな感情の起こる場面に遭遇したときに、感情をシャットアウトする癖がある。

直接危害を加えられていない。自分の課題ではない。だから、むやみに苛立ったり、怒ったり、理不尽さを覚えたりと、感情を荒立たせても仕方がない。

それはそれで、いっときの処世術としては役に立った。でも、長期的に続けていると、まったく違うところでひずみが生まれる。私の場合は、怒りや悔しさ、いらだちを抑えた結果、「やりたいことが分からない」というかたちで表出した。感情のつまみを絞っていったら、欲が一緒に衰退していった。


感情を波立たせる要素からは、できるだけ距離を置くよう心がけてきた。誰々が不倫だ、逮捕された、事件があった……といった、ワイドショーで延々と報道されるようなニュースたち。通勤ラッシュやハイシーズンの人混み。

それらを避けて通るのは、変えられないものに一喜一憂しない点で、とても有効だ。ただ、それでも、感情の揺れをゼロにはできない。


中学生のころ、ものわかりが良い、成績がよい、優等生、頭がいい、と褒められた記憶がある。突出した才能の自覚もなく、アイデンティティが安定しきらない10代前半には、甘美な響きの褒め言葉だった。

でも、その評価を維持するために、ネガティブな感情を抑えていったのだと今では分かる。高専に進学したあと一時不登校になったのは、いわば揺り戻しだったのだろう。


「ネガティブな感情だけを抑えることはできない」とどこかで聞いた。例えば怒りの感情だけを抑えようとしても、感情を調整するツマミはひとつしかないので、喜びや楽しみのようなポジティブな感情まで抑える結果になってしまう、らしい。

事象や感情に対して、自分に危害が加えられたわけじゃないから、と溜飲を下げようとする。でも、危害が加えられていないからと言って、そのときの感情まで消し去る必要はない。むしろ、感情をないものとして扱ってはいけない。回路を切っている。そのひずみは、必ず別の場所で表出する。

危害がないとしても、対象へのネガティブな感情はたしかにあった。このできごとは私に直接の危害はないけれど、私はこんな感情になった。それらはまったくの別物だ。逆説の「けれど」すら本来は不要だ。(さらに付け加えるなら、その感情をどう処理するか、表明するか・しないかは、ここに書いている論とはまた別の話だ。)


最近、Good Job! というゲームで遊んでいる。オフィスをステージに見立てたパズルゲームで、当然進めるほど難易度は上がっていく。想定どおりにクリアできず、イライラして、悔しいと感じていた。

遊んでいるときは「ただのゲームでイライラするなんて」と呆れていたが、いま思い返せばとても健全だ。この朗らかな健全さを、あらゆる場面で取り戻したい。

相変わらず、10代の頃と同じようなアイデンティティの揺らぎはある。でも、今なら、感情や欲とも、手を取り合ってすこしくらいは仲良くできる気がするのだ。


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