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苦心した80字から見つけた、自分の文章をつくる"練度"の上げ方


書籍を出版することになり、1か月半で8万字を書いた。
生活や仕事、予定のすきまから作業のための時間をひねり出し、あらゆる場所を活用した。音楽ライブの遠征中でさえ例外ではない。

締切は近く、スケジュールは過密だった。しかし、明確にあらわれる文字数からは、自分のやるべきことが進んでいる実感を得られた。
振り返ってみれば、何だかんだで楽しい時間だったと思う。

しかしその後、80字のまとめを書き始めたら、ぱたりと手が止まった。
さらっと書けば、80字なんてすぐ埋まる。字数だけなら8万字の1%にも満たない。

でも、その3行に満たないテキストを、苦心しながら、書いては消し、書いては消しを繰り返した。

考えれば考えるほど分からなくなり「短い文章って、どうやって書くんだっけ……」と途方に暮れる自分がいた。悲しくすらなった。


短い文字数の文章を書くのは、想像以上に疲れるプロセスだ。

同じ単語を2回使うだけでも、簡単に文字数がオーバーする。重複する言い回しも避けたい。かと言って、言葉を削りすぎると文章の意味が変わってしまう。

文字数が積み上がらないため、作業が進んでいる実感もなく、虚脱感に襲われた。

一方で、ぴったりと当てはまる言葉を見つけ、伝えたいことが規定の文字数内に収まったときは、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。

長い文章を書いていたときのように手放しで「楽しかった」とは言えないが、苦しさと喜びの両方があった。感情が忙しかった。



短い文章で的確に伝えるのは、想像よりずっと困難で、おもしろい。
文字数の規定内で試行錯誤するのは、まるでジグソーパズルみたいだ。

短い文章にも、伝えたいことは存在する。切実な想い、見せたい景色、知ってほしい知識、追体験してほしい感情がある。
文字数の制限がないなら、あらゆる言葉を尽くして書けばいい。でも、字数の制限がある中ではそうもいかない。

あるときは動詞ひとつに頭を悩ませ、またあるときは、形容詞が鮮やかに収まる瞬間に喜ぶ。この繰り返しが、短い文章をつくるプロセスの醍醐味だ。

ひとつひとつの単語は、自分が意図した意味と同じように、読む人にも伝わるか?
この単語は削れないだろうか?この動詞は変えられるか?逆に、単語を変えた結果、文章全体の意味が変わっていないか?

具体的にできる表現や単語はないか?あいまいな表現に逃げていないか?
「が」と「は」の助詞の違いで、言外の意味が切り落とされていないか?
ささくれのようにわずかで確かな違和感を、妥協して見過ごしていないか?

そうやって、ひとつひとつに神経を尖らせながら言葉を組み換え、入れ替えていく。

短い文章は「書く」よりも「練り上げる」期間のほうが長いのだ。


そう考えると、短歌や俳句の練度の高さには、いつも驚きと発見がある。
一息、ふた息で読んでしまえる文章に込められたひとつひとつの言葉は、すべて必然性をもって選ばれている。

歌人・木下龍也さんの著書「天才による凡人のための短歌教室」に、こんな一節がある。

僕は短歌をつくるとき、僕の頭に浮かんでいる映像や絵とまったく同じものを読者の頭に浮かべたいと思いながらつくっている。

天才による凡人のための短歌教室」より

(この一文は、短歌に限らず、文章を書くときのお守りとして大事に読み返している。)

また、コピーライティングの技術にも頭が下がる。
読む人にどんな感情を湧き上がらせたいか。俗な言い方をすれば、どんな購買行動を取らせたいか。

広告の目的を達成するために、読む人の心を変え、行動を変える。それだけの力を持つ言葉が、たまたまさらっと書かれた偶然の産物なわけはない。
用途はどうであれ、研ぎ澄まされた言葉には変わりない。


文章の練度を高めるために、具体的に何ができるだろう。

いまの私が考えられるものは3つある。
1つ目は「推敲」。2つ目は「具体化」。3つ目は「たくさん読む」。

「推敲」と一言で表してしまうのは簡単だが、あまりにも奥が深い。

ひとつひとつの単語や助詞に、意識的に細やかに気を配る。単語や比喩表現、助詞、句読点の位置。また、意図通りに伝えるために、足りないことや書きすぎていることがないか。

頭の中で、あるいは声に出して音読して、読んだときのリズムに狂いや違和感がないかをチェックする。

2つ目の「具体化」は、単語や表現の意味を、改めて捉えなおし、自分自身の表現を掴み取ることだ。
最終的には推敲につながるが、ただ字句を吟味するだけではなく、自分の内側に降りていくプロセスが必要になる。

例えば「嬉しい」と書いても、どのように嬉しいのかは人によって異なる。場面によって自分がどんな嬉しさを感じているかは違う。
インクが染み出すようなじんわりした嬉しさと、ヒャッと飛び上がりたくなるような驚きが混ざった嬉しさは全く別のものだ。

この差を「嬉しい」と紋切り型で表現せず、無骨でもいいから、自分の言葉で捉えるのが具体化だ。

また、辞書上の意味での「嬉しい」と、自分が意識せず使っている「嬉しい」は、微妙にズレている可能性がある。他の言葉に置き換えてより的確に表現できないかを考えたり、あえて辞書を引くこともある。

3つ目の「たくさん読む」は、一見無関係に思えるかもしれないが、とても大切にしている。
仕事に役立つ本、ただ興味があるから読みたい本、気になっていたマンガ、Webの記事、ふと見つけたnoteも気になれば読む。

感想を書けるものは自分の言葉でメモしておく。「よかった」に留めず、何がよかったと感じたのか、その時点で湧き上がる言葉を探す。2つ目の「具体化」のトレーニングにも通じる。

読んだ内容そのものも、書き留めた感想も、まったく忘れ去った頃にふっと思い出して役に立ったりするからおもしろい。大切だけど、あまり目的を持ちすぎずにやるようにしている。


私は、文章の練度を高めるのが苦手だ。

頭の中でいろいろ考えたものを一気に書き出すほうが好きで、推敲や具体化のプロセスは毎回苦心する。書きっぱなしも少なくない。

80文字のまとめのような短い文章でも苦労するのに、これを数万字にわたって突き詰めていく……と考えると、それだけでくらくらする。

でも、パズルのピースがはまるみたいに「これだ!」と思えたときは嬉しい。文章の練度を高めていくのは、大変だし苦しいけど、同時に楽しいプロセスのはずだ。


ひとつひとつの表現や単語を選びなおして、文章は具体的になっていく。
借り物の、あるいは紋切り型の表現ではなく、自分自身が悩み、選び取った表現に変質・深化していく。

苦しみながら、そして楽しみながら、ひとつずつ書いていこう。

そうやって手と頭を動かしたのち「よし、これでいこう」と思えたときに宿るものこそが、オリジナリティなのだと思う。


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