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ゼラチンを固めてゼリーをつくるみたいに文章を書く(もとい、noteを投稿したときの嬉しさのありかについて)


何気ない日常のなかで感じたことを捉え、観察し、文章で表現する練習を始めた。1500字前後でひとつのかたまりになるので、noteに投稿する。そのあいだ、個人ブログの更新は停止することにした。

noteに数記事を書いて、ふと気づく。いや、以前から気づいてはいたが、はっきりと自覚する。noteを投稿できると嬉しい。

投稿ボタンを押して、画面表示が変わって、今まで書いていた記事が映されると、「ああ、公開されたなあ」と内心にんまりなる。

この嬉しさは、いったい何だろう。


はじめは「他人に見せられる文章を作り上げられたのが嬉しいのかも?」と考えていた。その側面もあるが、どうも解像度が粗い。
誰にも見せない文章も書くが、できれば、他の人にも読んでもらいたい。いま抱えるモヤモヤが、未来の自分や、他の誰かの役に立つかもしれない。
(私は、未来の自分=他人だと捉えている節がある。それはまた別の機会に書こう。)

カフェで作業を完遂して悦に入れるから。それもあるが、すべてではない。家でも投稿できると嬉しい。何ならnoteに限った話ではなく、個人ブログでも同じ嬉しさを感じられる。どこで、どこに、投稿するのかは関係ない。

長くこねくり回していた文章が一段落ついて完成するとほっとする。
「いっておいで」と送り出す。すがすがしさが、胸のうちにさあっと吹く。

この嬉しさは「達成感」だ。

創作物の完成からしか得られない達成感がある。似たような達成感を味わう機会は、いまの生活のなかでは、他に心当たりがない。


あらゆる創作活動には、いちばん最初に「書きたい」「描きたい」「作りたい」がある。思い浮かばないものは、そもそも作れないので。
その思いは、はじめは的確な言葉で捉えきれず、綿菓子のようにふわふわしている。やや不定形で「ある」とは分かるが、的確に「作りたい」要素をつまむのはちょっと難しい。

一方で、「作りたい」思いが強く先行して、自分のいまの技量では作れもしないかたちを想像することもある。技術がまったく足りないにもかかわらず、精巧な工芸品を作るのを夢見るのと同じだ。
どちらにせよ、現実のアウトプットからはかけ離れている。

noteやブログ記事を書き進める、ひいては創作を進めるのは、それらの夢見がちな不定形に「形をあたえる」プロセスだ。形を与える道のりでは、必ずと言っていいほど、技量不足の壁にぶつかる。

書いていく過程で、何度もキーボードを打つ手が止まる。腕を組み、内心唸りながら周囲を眺める。考えを的確に捉えるための単語を、読んでくれる人(未来の自分も含む)に、いま自分が見える景色を寸分なく伝えられる表現を、探し続ける。
この壁にぶつかるのは、プロとかアマとか、まったく関係ない。


歌人・木下龍也さんが、著書「天才による凡人のための短歌教室」でこんなことを言っていた。

『僕は短歌をつくるとき、僕の頭に浮かんでいる映像や絵とまったく同じものを読者の頭に浮かべたいと思いながらつくっている。』

短歌の31字だからこそ突き詰められる面もあるだろう。でも、この感覚は忘れずにいたいと、ずっと思っている。


とっちらかっていて頭の中を、ときに勢い任せに、ときに丁寧に観察しながら文章に落としていく。その作業は孤独で、他の誰とも共有できないけれど、ときに苦しく、何よりも楽しい。そして、形になるとすがすがしく、嬉しい。

共有できない頭の中を、今の時点で共有できるかたちに整えていく。綿菓子の例えを出したが、どちらかと言えばゼリーのほうが近い。
「これを入れたらおいしくなるかなあ、どうかなあ」と悩みながら、溶かしたゼラチンに材料を混ぜ、「これでいいのだろうか……」と逡巡しながら冷蔵庫に押し込み、冷やしたらゼリーになった、みたいなイメージだ。

「こいつゼリー作ってるな」と見てもらえると嬉しいし、おいしいと思ってもらえたらもっと嬉しい。


私にとっては、書くことが、自分の内面を掘り下げていくことと、少なからず結びついている。投稿できた=掘り下げに一区切りつけられた。ひとつのテーマとしてまとまった状態だ。

書いた文章は、あくまで書いた時点での断面でしかない。時間が経てば考えも変化していくだろう。

でも、ゼラチンを固めてゼリーをつくるような行程で書いた文章が、そのときの自分を切り取るものとして機能しているといいな、とは思う。


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