見出し画像

幸せを呼ぶ英語Writing❤️そのモヤモヤ言語化できてる?

日本語って不思議です。あまり理由や根拠もなく言い放っても突っ込まれにくい。大体最後まで聞かないと肯定か否定かも分からない。そのせいかSNSのせいなのか、特に生徒は言語化して打ち返すのが遅い。それを国語力というなら、英語や社会科で補えると最近思うようになりました。

"子供達は「考えてみよう」と言われても考え方がわからないから、それを誘導していくのが大人の役目"

記事の中でオゼキカナコさんは学校で高校生と対話するイベントに参加された際感じられたことと、その予定調和的な雰囲気を(いい意味で)壊していくプロセスを述べられています。もう、共感しかない。

いろんなパターンで、いろんなシーンで、何度も何度も繰り返すうちに、「考え方の癖」がつくような気がするし、それこそが「自分で考えて行動できる人」への近道なのではないかな。

正解を求めることばかりしてきたタイプの先生がファシリで入ると、生徒がみんな同じような答えに同じくらいの時間で出すよう仕向けます。喋っていない生徒がいると、「ちゃんと意見するように!」と促したり…結果、答えは予定調和でしかなく、生徒も賢いので大抵は先生にに合わせてくれます。

こうしていろんな大人が関わって、いろんなシーンで小さな疑問を広げていけば、生徒にも思考を言語化して伝え、広げることができるようになる。

そもそも論理的に言語化することを習っていない

そもそも、日本の高校の国語教育は少し特殊です。アメリカやオーストラリアの先生の話では、高校にもなると本を一冊分析してかなりの分量のレポートを書かせます。日本の場合はかなり学び方がガラパゴス化しているのではないでしょうか。

専門家でもないので、ここは引用に留めておきますが、

アメリカの場合、

ハイスクール卒業までに正確、明晰、簡潔な文章を書く訓練が要求されたことになる。アメリカでは、Language Arts の授業で、「読む」ことより「書く」ことに重点を置いている。「アメリカの国語の授業が目指すものは、さまざまな文章とその書き方を教え、それらを状況に応じて書き分けられるようにすること」である。

一方、日本では

戦後の言語教育は、平易を旨とした。だから作文教育は思っていることを素直に表現することであって、その表現をいかに工夫するかではなかった。何を書くかの対象が第一義であり、それをいかに書くかは軽視されてきた。何より、その書くべき何ものかは客観的でなく、人間の思想や感情に限られていた。風景や静物を描写したり、報告文や記録文を書くことは指導されてこなかった。

出典:https://www.jstage.jst.go.jp/article/lecgsa/9/0/9_KJ00007558899/_pdf

また、高校ともなれば難解な描写を読み解くことに主眼がおかれ、4行OREOなんて言っている場合ではありません。だから、日本の国語教育では実際の使用を主眼にした教育は難しいのかもしれません。

英語、その他科目が国語力養成の救世主になる?

ここ2年、OREOをスタート地点としたPersuasive Essayの取り組みを行ってきました。

高校1年生の3学期は理由が二つのPersuasive Essayを目標のアウトプットとして進めました。生徒は最初は根拠を日本語でも言語化できませんしたが、1週間もすると根拠として何がふさわしいかが説明できるようになりました。

それはモヤモヤが晴れる瞬間。日本語の思考にも会話にももちろん小論文にもいい影響があったと生徒は言います。国語力を国語の授業に丸投げするのではなく、英語や社会、理科を通して総合的に身につければいい。それはまさに学習指導要領が言っていることとも一致します。

さいごに

先日も飲み会でお医者さんに、「英語の前に国語力」とか、「日本語もできないのに英語なんて」と言われました。でも、言語というのは総合的です。国語の授業の工夫や国語の先生の実践だけが国語ではありません。思考や行動様式までを支配する言語、それが国語だとすれば、子どもに関わる全ての人、全ての教科の先生が国語力養成に関わっているのです。

以前、生徒が「えとー先生の授業を半年間受けてきて、意味もなくモヤモヤとすることが減った。」とリフレクションに書きました。まさにそれが目指してきたこと。目先「英語力」ではなく、生徒が幸せに生きていくための力を養成する手助けをしたいと思います。



いただいたサポートで参加者がハッピーになる仕掛けを増やします^^