「国語」ー気付き
お久しぶりです。すごく。
最近は毎日家に篭って、音楽聴きながら、本を読んだり、パソコンかちゃかちゃしたり。
コロナのせいで暇!と言いたいところですが、単純に予定がないだけです。家でもやることはあるので、暇でもないですし。
今日は、前回投稿した「国語」についての続き、気付き編を書いていこうと思います。
洗面所でコーヒー片手に描きます。(ご飯とか除いて、洗面所で生活って完結できそう。)
前回の記事はこちらです。こちらも読んでみてください。
今回長いので、目次飛ばししてもらっても構いません🙂
日本語ー朝鮮半島での役割、その意義
前回は、「英語」の言語政策についての授業を受けたときに、日本がどっかで言語政策しなかったっけ?って話で終わったんですよね。
皆さんが歴史の教科書から学んだ日本の言語政策は、朝鮮のケースではないでしょうか?私もそのとき頭に出てきたのは、この事例でした。
1905年の日露戦争で、不凍港欲しさに南下政策を打ち出していた大国ロシアに劇的な勝利を収めた日本(私は史学科の人間ではないので詳しくはわかりませんが、203高地の攻略は興味あり)。
この戦いの講和条約であるポーツマス条約によって、日本は当時大韓帝国の敷かれていた朝鮮半島の利益権をロシアから手に入れます。
そして、1910年。日本は正式に「朝鮮」を日本領地に吸収します。
教科書などにはこれを韓国併合とも書いていますが、韓国(大韓民国)ができたのは、現在の北朝鮮との政治体制が分かれた後('48年以降)なので、厳密には、朝鮮併合といった方が良いのではないでしょうか?
この併合後、日本は朝鮮を外地とみなし、日本天皇制の下に支配しようとします。(最近この手の韓国映画が増えていて、日本人が悪役で描かれていることがおおいです)
当時日本が朝鮮の人々に対して行ったのは、日本語教育でした。
言語とは、人間にとって最も自明な何かである。(イ・ヨンスク 『「国語」という思想 近代日本の言語認識』岩波書店 2012年)
我々人間は、言語に囲まれ生きています。話したり、考えたり、全てが言語化された世界。
日本が当時朝鮮の人々にしようとしたのも、日本語というツールを用いて心理的(物理的?)に「日本人」にするためでした。
とは言え、訓民正音(ハングル, 한글)が根付いて500年近い土地で、日本語を浸透させることは非常に時間のかかる事業でした。
そこへ駆り出されたのが、当時東京帝国大学(今の東大)にいた言語学者や植民地学者でした。彼らは、どうしたら日本語というツールがうまく広まるのか、またどうしたら習得の難しいと言われている日本語をうまい具合に話させることができるのかについて朝鮮の土地に派遣されながら考えました。
ただよく間違って考えている人が多いのですが、日本の言語学者は強制的に日本語を話させたり、話さない人には重罰を科すなどの行為はしていません。あくまで言語的コンテクストの異なる世界で、日本語がどういう役割をするかに重点を置いたまでです。
ここまで話してきて、日本は大きな問題にぶち当たります。
それは
国語国字問題
皆さん聞いたことはありますか?
国語国字問題
要は、どの文字を国語とするのか、という問題です。今現在私は、日本語母語話者として漢字、ひらがな、カタカナを使ってこの文章を書いています。
当時日本の侵略していたいわゆる「大東亜共栄圏」とは、北は満洲国(現在の中国東方部)から、南はニュージーランドまでの広い政策構想でした。
ここで問題になってくるのが、圏内の全ての人間が意味がわかって、コミュニケーションの取れる言語ってなんだろうってこと。
そこで日本人は色々な文字を試しました。
前島密の漢字廃止之議にみられる仮名文字の導入。
西周の日本語ローマ字化の導入。
森有礼の英語の国語化。
さらに、主に満洲で使われ、日本人が中国語を混ぜて作ったとされる大東亜語としての日本語(戸坂潤)など、その種類は様々です。
学者たちが必死になって研究した成果も、結局は大日本帝国の活動の一部とみなされてしまったことは非常な皮肉であると思っています。ただこうした成果を今現在自分が研究できていることには感謝です。
ある言語を話すには、文法や意味が分かるだけでは不十分です。その単語の使われる文脈や発話行為としての音声・音韻の問題など、解決しなければならないことが山積みです。
ただ上の学者たちはこうしたことを踏まえて、軍部とはまた違ったベクトルで、朝鮮という土地をみていたんだと思います。
終わりに
現在、全世界の人々が英語を使って対話していますが、それも全人類の話ではありません。中国語の話者人口も膨大な数になっています。
そんな中で日本語はどうなっていくのでしょう。以前知人の英語教師に、日本語は第3言語になりうると言われたことがあります。
当時英語や韓国語を学びたいと思っていた私はあまりその言葉を意識していませんでしたが、大学に入って「英語で」日本文学や言語学を学ぶ内にその言葉がリアルさを増していきました。
さらに触れなければならないのは、未だ自分たちの土着言語、はたまた方言を話す人も少なからずいます。彼らにとって新たな言語は、新たな世界なのです。ここら辺の言語学的問いには、フィールドワークが専門の言語文化人類学の研究者だけでなく、理論的な研究者も何かしらのアクションが必要ではないかと思います。
......。長々と話してしまいました。
すみません。楽しいことには変わりないですが。
2回に渡り、「国語」としての日本語のイデオロギーについて語ってきました。正直まだまだ研究したりません。というか私自身、そこらへんの学部生、先行研究に追いつくには果てしない道であるのは明確です。それだけ言語、またそれを取り巻く文化、人間が複雑ということなんですね。
だいぶ間が空いてしまいましたが、今回はここらへんで終わりにしたいと思います。(唐突)もし質問や、こんな論もあるんじゃない?などあれば、コメントでお待ちしてます。
また時間が空いて、話すことが見つかったら。
皆さん、現状に負けず頑張りましょう。
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