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【ショートショート】願う

 亀裂の入った校舎を囲む、寂しい木々と同じくらい痩せぎすの背中は、急かずともすぐに目前に据えられた。ぶかぶかのコートから伸びる白紙のような足が、夕陽が灯した火に侵され赤く染まっている。


 高校二年生最後のホームルームを終え、机の中にみっちりと詰め込んでいた教科書を回収しながら、春休みに思いをはせていた。友人たちは、部活の集会があると走って教室を出て行き、活動内容の緩い文化部と、そもそも部に所属していない者どもが浮つく心を押さえながら帰り支度をしている。

 気付けば、糸で引かれるようにドア側の一番前の席に目をやっている。耳の後ろでおさげ髪にした小ぶりな頭が、針金が入ったように真っ直ぐな首の上に乗っている。野暮ったい灰色のセーター。揃えられた細い足首。それは判を押したような風景だ。そしていつも通り、視線が合うことはない。

 力任せに通学用のリュックを膨れさせたときだった。
 教室の真ん中の席を囲んでいた女子数名が、おさげに近付いて行く。つられて視線を動かすと、彼女たちは声のトーンを暗くして、または努めて明るくして、瀬川すみれに向かって眉尻を下げた。

「明日から入院なんだよね? 頑張ってね」
「手術上手くいくといいね」
「お見舞いに行くよ」

 瀬川は一瞬戸惑ったように瞬きを繰り返したが、すぐに柔らかな笑顔を咲かせ、「ありがとう」と、耳をそばだてなければ俺には聞こえないくらいの声量で返した。
 言うだけ言って興味を失ったのか、女子たちはすぐに瀬川のもとから離れていく。

 その間にも、俺の健康な心臓は、駆ける馬の足音に似た音を立てていた。
 いつも目で追っていた、セーターの匂いまで知っているあの瀬川が、入院して手術をするという。
 俺は額にBB弾を打ち込まれたような衝撃を受けて、天を仰いで息を詰めた。

 窓から差し込む熱の篭った夕陽が辺り一面を燃やす。

 まるで火刑だ。俺は別に悪いことなどしていないというのに。昨日、誤って弟の分のプリンを食べたけれど。雨の中、瀬川が目の前で倒れたとき、おぶった背中に柔らかいものが当たったこともあったけれど。そんなのは事故のようなものだろう。

 俺が狼狽して視線を迷子にさせているうちに、瀬川は立ち上がって教室を出て行った。はっとしてリュックを背負い、廊下に駆け出ると、ゆっくり歩く彼女の後ろをつけ始めた。
 燃え滾る海の中で行き交っている同級生たちに溶け込むように、自然な速度で追いかける。上履きを履き替えるときは、一緒にならないようにわざと遠くから様子を見ていた。

 瀬川は時々歩調を弛め肩で息をして、そしてまた速度を戻す。生まれつき心臓に欠損があるため、日常生活上での軽い運動も体に負荷がかかるそうなのだ。困ったように笑いながら言っていたのを、こうしていると思い出す。


 校門をくぐらない細道を、いつも瀬川は帰って行く。俺も同じ道を通る。
 校舎から離れると、俺は周りに人がいないのを確認して声を掛けた。

「瀬川」

 思いのほか掠れた声に、瀬川はすぐに歩みを止めて、うさぎが跳ねるように大仰に振り向いた。

「びっくりした。龍太(りゅうた)君も今帰り?」

「おう。……あ、あのさ」

 溜め過ぎた教科書が肩に圧し掛かり、胸の中をも圧迫している。肺で二酸化炭素が滞っている。冬の冷たさの残る風が、声の出ない喉元を撫でていくのが切ない。
 俺の気も知らないで、瀬川は風に揺れるタンポポのように首を傾げていた。

「手術、するらしいじゃん」
「あ、そうなの。春休みにね」

 何でもないふうに答える。

「予定では四月中旬には学校に来れるんだ」

 微笑みを浮かべる唇は、しつこく沈まない太陽に照らされて口紅を塗ったように彩られていた。化粧をされた彼女はますますきれいに映る。
 覚悟を決めて拳を握る。酸素を充填するように深く息を吸って、声を張り上げた。

「俺さ、瀬川のこと好きなんだ!」

 瀬川の目が落ちてしまいそうなほど膨らんだ。

「体調悪いのにいつも笑ってて、すごいと思う! 俺、瀬川の傍にいて力になりたいんだ!」

 先程瀬川を囲んでいた女子たちよりも早口で捲し立て、彼女の表情を伺うと、暗幕が垂れてきた世界の中で、まだ顔を赤く染めていた。瞳が水に浸かったように輝いている。いけないものを見た気分になり、俺は瀬川の後ろの朧げな山の稜線を必死に見つめた。
 視界の隅で瀬川の唇が小さく動く。

「ありがとう、嬉しい。……うん。私、手術頑張るから」

 その瞳から星粒が一つ落ちた。
 不安も喜びも混ぜ合わせたような表情だった。
 思わず、瀬川の頼りない両手を握り締める。

「大丈夫だ」
「うん、大丈夫」
「見舞いに行ってもいいか?」
「うん」

 陽の落ちた浅い暗闇の向こうの彼女は、やはり口角を上げていた。それが強がりか本物か分からない。

 いつの間にか掌から小さな手が抜かれ、彼女が「またね」と手を振った。

「いや、送ってく!」

 去って行こうとする瀬川を呼び止めると、瀬川が車道の方を指差して「迎えが来てるの」と隠し事を告白するように囁いた。
 引き下がるしかなくなった俺は手を上げ、離れていく瀬川を見送った。闇が彼女の背中を呑み込んでいく。

 そういえば連絡先を聞き忘れた。

 リュックを背負い直して見上げた先には満天の星が浮かんでいて、俺はその中で一等明るい星に、瀬川の手術が成功することを祈った。

 LINEのIDを教えてもらえますように、と付け加えることも忘れなかった。


***

お友達と例文を小説ふうに直す遊びをやっていて書き過ぎてしまったもの。

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