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あの日ほどドキドキした乾杯はない

「おつかれさまでしたー!」

 同じ部署の人たちの声が工場内に響く。
今日はこの夏の繁忙期に製造した化粧品の最終ロットの出荷だった。
 品質保証部と製造部、つまり工場内のほぼ全員が、こうして製品を積んだトラックを見送るのが慣例だ。
 梅雨入り前からの残業続きの日々。ロットアウト品が出て死ぬ気で納期に間に合わせた苦労ーー夏が終わったのだ。
 誰かがはじめた拍手にひとり、またひとりと同調し、瞬く間に割れんばかりの拍手が響き渡る。

 ああ、今すぐにでも飲みに行きたい。みんなで冷えたジョッキを鳴らして、キンキンに冷えたビールを喉に流しこむのを想像する。
 だが、午後の仕事は始まったばかりだ。みんなが口々に話しながら持ち場にもどっていくなか、その場にいる全員の心を代弁したかのように、

「飲みに行きてー」

 と誰かがこぼすのが聞こえた。

 事務室に戻ると、ここ数ヶ月奥の席でピリピリした雰囲気を漂わせていた部長はいなかった。タバコ休憩だろう。工場内は男の人が多いから、きっとしばらく戻ってこない。

 私はうーんと伸びをし、昼休みに新しく増えていた書類に目を通しはじめる。階下から聞こえる機械の規則的な稼働音は、集中しているとまったく気にならないのに、こういうときは眠気を誘う。 

 新卒で品質管理部に配属されて6年。私は口紅をはじめとする化粧品の出荷検査にまつわる書類を作成している。
 各部屋に割り振った書類を持って、私は手近の梱包室から、階下の製造室、次に検査室に置きにいく。

 工場内で働く人はみんな、水色のちょっと野暮ったい作業服で、毛髪が落ちないようネットと顔だけを出す帽子を二重に被っている。顔しか出ていなくても、見慣れれば歩き方や体格だけで誰だかわかるものだ。
 ちょっとけだるそうな歩き方をする長身を検査室で見つけ、

「坂下さーん」

と声をかける。

「書類、机に置いときまーす」
「おー、ありがとう」

坂下さんは課長の役職を持っていて、口紅の官能、使用性試験を行う検査員だ。

『坂の下って書くけど、サカシタじゃなくてサカモトな』

 坂下さんがそんなふうにおどけた口調で自己紹介してくれたのも6年前。
 ガリガリではないけど身長があるから細く見え、ちょっと猫背で、顔のパーツひとつひとつの存在感の薄い塩顔だ。

「あ、寝てたな志摩さん」

 検査室の中のさらに埃が入らないようにしてあるガラス張りの部屋から出てくるなり、坂下さんがニヤッと笑う。

「えっ、どうしてですか」

 事務室に誰もいないのをいいことに、じつは10分ほど、完全に熟睡してしまっていた。

「跡ついてる」
「嘘」
「うん、嘘」

 坂下さんはあっけらかんと笑う。

「さっきみんなで話しててんけどな、今日メシ行こか」

 飲みに誘ってくれるとき、坂下さんは必ずそう言う。
「飲みに」ではなく「メシ」で、しかもその発音は「飯」よりも軽い「メシ」なのだ。
性的なニュアンスを感じさせないために意識しているのか、ただの口癖なのか、食事に重きを置くから「メシ」なのか。
とにかくカタカナの「メシ」に聞こえるのだ。

「いいですね。他は誰が来るんですか?」
「矢田っちと宮野は行くって言ってる」

 矢田さんは私より先に品質管理部にいた検査員。宮野くんは会社のすぐ近くにある寮に住んでいる高卒で、2年前に入ってきた男の子だ。

 ようやく待ち望んだ終業のチャイムが鳴ると、私はタイムカードを切って、蒸し暑い更衣室で着替えた。
 ふと、ロッカーにもらって入れたままだった口紅のサンプルが目につき、せっかくなのでつけてみた。
 それから髪の毛と化粧もなおし、待ち合わせの6時に会社の前に出た。

 でも、時間どおりに現れたのは坂下さんだけだつた。

「お疲れ。矢田っちは仕事終わらないみたい。宮野は彼女がご飯作ってたからやめるってさ」
「そうですか……残念です」
「さて、どうしよっか。今日食べて帰る予定だったんだけど」
「あー、私もです」

 母から口酸っぱく言われているので、今日は誘われてすぐにご飯は要らないと連絡していた。

「とりあえず駅のほうに向かって歩くか」

   夏の終わりは6時を過ぎてもまだ明るい。
私たちはーーきっと坂下さんもおなじだったはずーー互いの適切な距離を意識しながら、横並びで駅までの車道沿いの道を歩いた。汗をかきたくなくて、気持ちだけはゆっくりの歩調で。

「志摩さんてワイン好きだったよな」
「好きです」
「俺の友達がイタリアンのお店やってるんだけど、そこ行こうか」

 私が返事すると、坂下さんはさっそく友人に電話してくれた。
 ほどなく連れてこられたのは、明るくてにぎやかなーーと勝手に私が想像していたのとは正反対の、敷居の高そうなお店だった。
 この近辺で入り口に砂利敷の通路のあるお店なんて私は見たことがない。

 お店の中は照明を落としていて、テーブルはは6卓しかない。2時間くらいノンストップで喋っていそうな女子たちや、酔ってがなるように喋る男性もおらず、マダムといったいでたちの女性や老夫婦が席についている。
 私はすっかり肩身が狭かった。こんなところだとわかっていたら、もっといいワンピースを着てきたのに。

「志摩さん、なににする」
「うーん、はじめは白かなって気もするんですが、この赤ワインがおいしそうなので」
「じゃあ俺、白にしようかな」

 ワインと数品の前菜をオーダーし、向きなおった坂下さんが私を見て言った。

「それ、新製品の06番だろ。志摩さんによく似合ってる」

 私はなんの気なしに更衣室で口紅をつけてみたことをちょっと後悔した。
 男の人から化粧のことを褒められると、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
 今日にかぎって坂下さんは、冗談をひとつも言ってくれない。静けさを紛らわせてくれる機械の稼働音もない。

 そういえば、坂下さんの髪型を初めて見たのは本社での全体朝礼の日。想像と違って、ちょっと段をいれた若く見えるストレートだった。

 私服を見たのは新入社員歓迎会のとき。ハンチング帽にこだわりブランドっぽいジーンズをきれいに着こなしていた。

 それから、坂下さんの趣味が私と同じ読書だと分かったのが3年めあたりの飲み会のとき。本は必ず新刊で買うという坂下さんが貸してくれた本はどれも綺麗なままだった。

 どうしてそんなことを、こんなときに思いだしてしまうのだろう。

グラスが運ばれてきて私は坂下さんと乾杯した。
 ワイングラスは音を立てないほうがいいんだっけ、と思いつつグラスが触れあってしまって、繊細で軽い音がたった。
 遠慮なくぶつけてもびくともしないビールジョッキの乾杯から、ずいぶん遠くまで来てしまった気がした。

 私はほとんど緊張しっぱなしだった。 ワイングラスを持つ手はかすかに震えていたし、グラスの縁には06番の口紅がついていた。

 ***

 子供が寝た家の中は、いっそう静かだ。部屋の電気をつけて私は盛大にため息をついた。
 3歳児のイヤイヤには本当に手を焼く。
 4月になったら幼稚園に通いだすからと辛抱していたけれど、2週間、また2週間と登園が先延ばしになった。
 入園式は涙を誘う間もない30分。
 スーパーと公園を往復する毎日。
 せめてものストレス発散にビールでも開けようかなぁと思っていると、玄関のドアを開ける音がした。

「おかえりなさい」
「ただいまー。昭二もう寝たの」
「寝たよ。ごはん食べるでしょ」
「うん、でもその前に」

 じゃーん、というセルフ効果音とともに、昇さんは鞄からワインボトルを取りだした。

「毎日頑張ってるみーちゃんに」

 それから、生ハムとチーズも。チーズには30%引きのシールが貼ってある。
 そのスーパーはレジ袋有料化を4月から先駆けてはじめていたはずだ。数円を節約して、黒のビジネスバッグにワインやらチーズやらを詰めこむ昇さんを想像して、私は思わずふきだしそうになった。

「顔がにやけてますよ、奥さん」
「だって嬉しいんだもん」

 グラスを出してふたり分のワインをついでくれている間に、私はごはんの準備をした。

「ふたりきりで飲むの久しぶりだなぁ」
「昭二が起きてるとゆっくり飲めないしな」

 ソファで隣あって座り、グラスを軽く触れさせる。
 私は赤ワインの液面をグラスの中でゆらゆら揺らしてみせてから、一口飲んだ。


 結婚してもう5年。グラスに口紅はつかないし、もう手が震えることもない。
それでも、こうして一緒に飲むことができる嬉しさは、きっとあのときとおなじかそれ以上だ。

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