金目鯛
新橋から自宅方面の上野へ向かうタクシーの中で、市川は心地よい振動に身を委ねていた。
決して心地よい空間ではなかった。
タクシーに入った瞬間漂う消臭剤とアルコールの臭い、それに負けない主張を続ける悪臭は、つい数分前の客が残していった赤ワインの嘔吐物だという証拠には、充分だった。
しかしその数秒後、市川は喉の奥からいびきをかきながら、深い眠りにつきだした。
ー無理もない。木曜日に引越しのアルバイトを終えたその足で絵画教室へ行き、その後東武動物公園の動物の飼育のアルバイトを、その日22時から仮眠を挟み15時まで働いた。
その日“獲た”「お年玉」を握り締め、新橋の寿司屋へ直行した。ひどく疲れているせいか、寿司屋で飲んだ日本酒はどんなお酒より強く感じた。
お客さんー、お客さんー。
起きて下さいー。
市川は鉄のシャッターより重い目をゆっくりあげると、真っ赤な目をさらに擦り続け、支払いを済ませた。目はもうぐちゃぐちゃだ。
市川が到着した先は自宅·····ではなく、上野にあるクラブ「なでしこ」だった。
もしかすると佐々木さんがいるかも知れないー
市川は佐々木という男を探していた。
その好奇心だけでお酒の勢いを借り、店の前まで辿り着いた。
EVですれ違いざま、NIKEのキャップを深く被った2mはあろう大男と肩がぶつかった。
大男はこちらを一切振り返らずまっすぐ歩いていった。
少し息が荒く感じたのはお酒のせいかも知れない。
「 一見さんお断り」と書かれたスナックの扉を左手でノックするのであった。
右手には炊飯器を抱え、背中にはべったりと、前の客が残した赤い嘔吐物を付着させながら。
先程の大男とぶつかった左肩に、べったりと、赤い血痕が付着している事は、この時まだ市川は知らない。
確実に市川は金目鯛に近づいている。
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