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夏が溶けてゆく

8月に入ってから暑さで脳が溶けている。
ほんとうに溶けているのかどうか見たことがないので知らないが、体感的には溶けている。溶けて血管に沁みだして全身に回ってしまっているから、たぶんいま私の頭の中はただの水みたいなのしか入っていないだろう。
水といってもクリアではない、少しにごった感じの水。
澄んだ水が欲しい、体の内も外も全身が透明な水を欲している。

そんな気がしてくるほどの暑さだ。
年々それがひどくなってゆくように感じられるのは、私が歳をとりつつあるからなのか、温暖化で地球がじりじり病んでいるからなのか、どちらだろう?
たぶん両方だろう。

頭の中が水っぽく薄まっているので、言葉の出し入れがうまくできない。
と思って、ここ数週間ずっと写真を撮っている。
きっかけは雷雨だ。

雨も降らず焦げるように暑い日がつづいてへとへとになっていたある日の午後、ようやく雷鳴が雨を連れてきた。それもどっさり大量の雨を。
文字どおりバケツをひっくり返したような水が天から落ちてきて庭木や草花がいやというほど水をもらっているのを見ていたら、自分も思い切りシャワーを浴びたくなり早めの風呂に入った。

昼間の汗を流して血のめぐりが良くなると、どこかに溶け出ていた脳が少しずつ元の場所に戻ってかたちを成してくる。ぼんやりしていた頭の霧が晴れてゆく。
呆けるってこんな感じなのかな。と、入浴前の自分の認知レベルを反芻しながら何十年か先にやってくるはずの自らの脳について考える。

バスルームから出たら大雨がやんでいる。
黒く濡れたアスファルトに昼間の熱はもうない。
乾いてぴりぴり痛い肌にたっぷり水分が注入されたときのような路面にほっとして、家じゅうの窓を開け放とうと二階に駆け上がる。
踊り場の西に向いた窓の前で思わず立ち止まる。

金色の光が斜めに走っている。
金色とオレンジとブルーグレーとチャコールグレーが空に広がっている。

そうだ、写真、撮りに行こう。

JRの広告のイミテーションみたいな言葉がふいに頭に浮かび、髪のブローもそこそこにノーメイクのままサンダルを引っかける。
どうせ夕方だ。
他人を観察する気力など失せている、だらけた真夏の夕方だ。
風呂上がりの私を気に留める人などいないだろう。
まだ少し湿っている髪を夕風で乾かしながら、田んぼを見下ろす坂道のてっぺんまで早足で歩いてゆく。

急がなきゃ、あの光と色が消えないうちに。

私の住む家は、山を切り開いて作られた新興住宅地の端っこにある。
もともと山と田んぼしかなかった呑気な田舎町だったのが、何十年か前にある企業の研究所が引っ越してきて、家が建ち、スーパーや小学校や病院ができ、そこそこ便利な田舎になった。夫がその研究所に異動になり、家族で引っ越してきてからすいぶんとたつ。

切り開かれた山の上の住宅群を抜け、国道につながる坂道のてっぺんまでくると眼下はいちめん緑の田園だ。田んぼのむこうに広い国道が一本走っていて、さらにその向こうに川が流れている。そのずっと向こうには、かすんだ山々の連なりが見える。夏の山はかすんでいるけれど、空気の乾いた季節になると稜線がくっきりと浮き上がり、そのうちそこに白いものがかぶさって、冬が来たことを肌にも目にも実感することになる。

その坂道のでっぺんが夕焼け空の絶景スポットだ。
まわりに遮るものが何もなくて、なるたけ空に近いところ。

金色とオレンジとブルーグレーとチャコールグレーは形を変え、濃淡を変えながらもまだ目の前に広がっている。

ひとまずスマートフォンのシャッターボタンを押す。
スクエアで、パノラマでとあれこれ撮ってみる。
ときおり手を休めて水彩画みたいな空をぼうっと見つめる。
そのそばを中学生が自転車でゆっくりと通りすぎる。

真夏の昼下がりを歌った古い歌をふと思い出す。
ギターの開放弦の音が太陽の照りつける川面のようで、
単調に響くベースの音はどっしり重い川底の流れのようで、
そこに眠たげな男の声が重なって、どこまでも暑くけだるい夏の歌になる。


「こんにちは」という声が背後でする。
若い女が近づいてきて、スマートフォンを構える。
ここから見るときれいなんですよね。
初対面で歳も離れているのに、ごく自然に会話が進むのは目の前の夕焼けのせい?
投稿ですか、と私が訊く。
いいえ、ただの趣味で。
メイクが汗で崩れていない涼しげな横顔に、若さ、の清々しさを感じ、夏にやられた自分の姿が彼女の目にどう映っているだろうと少したじろぐけれど、一瞬あとにはどうでもよくなって、ただ目の前の色彩のエネルギーに圧倒されている。
私たちは並んで立ち、黙々と、場を共有しながらも相手の時間とテリトリには踏み込まないようシャッターを切ってゆく。

その夜、初めてインスタグラムに夕空の写真を投稿した。雷雨のあとの空があまりにきれいだったから人に教えたくなったのだ。
もともとそれほど撮るほうではなかったし、撮ったとしてもありきたりな写真ばかりだし、投稿してもたいした反応はないだろうと思っていた。

ところが。
投稿して2、3分後に反応をもらい、私は思わず「ひえっ」と声を上げてしまった。
いったいどんな人?
読めない名前の人だった。
その人の投稿写真のキャプションを読んでみても、読めない並び方をしたアルファベットの上にアクセント記号が踊っているだけだった。
翻訳をする、をタップして、奇妙な日本語からだいたい把握できたのはチェコの人だということだった。
はるかはるか西の、風に揺れる草原の写真を撮った人。

それから朝の散歩で写真を撮るようになった。

私は毎朝、窓の外が白みかけると同時に目が覚める。
子どもたちのお弁当をつくっていたころからの習慣がいまも続いている。
お弁当をふたつ作っていた頃は、「起きねば」という義務感と緊張感があったから朝5時に目覚ましをかけていた。かけなければ起きられなかった。

いまは目覚ましをかけなくても、冬でさえ夜明け近くに目が覚める。体がそうなってしまっている。夏だと、だいたい4時半から5時のあいだだ。

朝起きたらまずやるのは薬罐にお湯を沸かすこと。
ひとまずお湯をわかせば何かが始まってゆく。
お湯を沸かしているあいだに朝のルーティーンにひとつずつ手をつけてゆく。
起きぬけの顔に粘土の洗顔料を塗りたくり、それが乾くのを待つあいだに急須に緑茶の葉を、グラスにバナナ酢を大さじ1杯入れる。

バナナ酢は黒酢にバナナと黒砂糖を入れたもので、一週間たったらバナナを取り出して、毎朝大さじ1杯をぬるま湯で割って飲んでいる。ある料理研究家が大病を患ったとき、酢を使った飲みもの食べものを毎日摂っていたら元気になったというものだから、そのレシピ集が載った雑誌を買ってあれこれ作っている。表紙に書かれた謳い文句は「アンチエイジング」。

私は凝り性なので、何かにはまるとえんえんそれをやり続け、ひそかに家族の不評を買っていることがある。大病を患った料理研究家のお酢料理もそのひとつで、酢大豆やらタマネギ酢やらあれこれ作っては家族に食べさせ、文字どおり酸っぱい顔をされまくった。
そんな中で唯一、毎日摂取することに家族が同意したのがバナナ酢だった。

バナナ酢ドリンクを飲みながら、寝ているあいだにLINEやメールが来ていなかったかを確認する。娘や息子からくるLINEはたいてい夜の11時以降だが、その時間はたいてい寝ているから返事は早朝になる。
「そっちからの返信って大体いつも朝の5、6時台だよな。なんかさ、できるビジネスマンの生き方体現してない?」
離れて暮らす息子が先日そう言うので、あれ、この子最近ビジネス書読んだりするようになったのかな、なんて思ったりして、マニュアルじみたことを全部鵜呑みにしないほうがいいよと言いそうになったが、喉元まで出かかった言葉をどうにかのみ込んだ。

息子も娘も私の言葉を鵜呑みにする年齢ではとうになくなっている。
そのかわり朝の散歩で撮った写真を一方的に送りつけている。

最近副業を始めてしまった娘は忙しいらしく、私の送りつける写真は「既読」で済ませている。
お盆のオンライン飲み会で見た彼女は少し疲れた顔をしていた。
「そんなの無理だよできないよ」とか「カンダさんみたいにチャレンジしたいけど」とか、まわりはいろいろ言うけど、もうそんなこといちいち気にしないことにした。私は私のやりたいことをやるよ。
やりたいことをやってはいるけれど、時間がなくて、今日も朝から夕方までずっと仕事して、ゆうべとんかつ食べようとしたら一切れしか食べられなくて。

私なんかよりずっと写真が好きで、高いカメラをローンで買って、旅先でたくさん撮っていた子がいまアパートにこもってキーボードを叩いている。
四国を旅したときの話を訊いてみても、「ああもうずいぶん前の話」とまるで三十代の女のような顔をする。
少し休んで旅しておいでよと言いたいれど、たぶんいまの彼女には届かない言葉かもしれない。
直売所に新米が並びはじめたら、ピクルスや塩豚と一緒に送ってやろうと私はひそかに心に決める。

旅。
そう、旅をしたい。
はるかはるか西の草原や、そのまた西にある石の遺跡。北方の森の国。
いま頭に浮かぶのは、そんな冷涼なところばかり。
やがてこの夏も溶けて流れて、気づくと秋がそこにいるのだ。



まとまりのない話におつき合いくださったかた、どうもありがとう。
前回のnoteで、一瞬の驚きがどうのこうのと格好つけたことを書いたあと、書く気も起きぬ灼熱の3週間を過ごしてましたが、それを抜け出すきっかけをくださったのは、あおやぎさんのnoteなのでした(↓)。こんなふうに、とりあえずパソコン開いて目的地のない旅のように書いてみるってのもありだと教えてくれたあおやぎさん、ありがとう。
彼女のnoteがいわば「一瞬の驚き」だったのかも。






こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。