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本を読むということ、孤独ということ

「本を読む暇があるなら、もっとほかにやることがあると思う」とA子は言った。なんの気なしにそう言っただけなのか、私が本をよく読むのを知ってのうえでそう言ったのかはわからない。が、私はそのとき、近しい人に目の前でそう言われたことに驚いて二の句が継げなかった。A子の隣に座っていたB男も、たぶんあまり深い考えはなく、「そうだよなあ、たしかに。時間がもったいないよね」と相槌を打った。

A子は写真を精力的に撮っている人だった。B男は音楽を精力的にやっている人だった。どちらもアマチュアだけれど、小さな空間を借りて写真展を開いたり、バンド仲間とライブハウスで演奏したりと外向きに活発に活動する人たちだったから、家の中でじっとして本ばかり読んでいる私のことを見て、無為に過ごしているなあとたぶん思ったのだろう。とくにA子の口調には、そこはかとない苛立ちが感じられた。

私にとって本は大事なものだった。私にしてみれば、ほかのことをやるくらいなら本を読んでいたい、読書以外のことをする時間がもったいない、というのが本音だった。

いま振りかえると、私はずいぶん利己的な発想をしていたと思う。自分に近しい人たちなら、おそらくある程度は読書の楽しみをわかってくれているはずだと、はなから思っていたのだ。しかし、それはとんでもない独りよがりで、ただの思い込みにすぎなかったことを私はそのとき初めて知った。

それでも、言われてから何年ものあいだ、私はA子の言葉に引っかかっていた。

たぶんむこうはこう言いたかったのではないか。
「あなたはただそこに座って本のページを繰っているだけで、なにかを発信しているわけではない。あなたはなにも生み出していない。写真を撮りに行き、プリントして写真展を開くことや、楽器を演奏して歌をうたい、人に聞かせることは能動的な行為だけれど、あなたはただ受け身な時間を過ごしているだけ」なのだよと。

彼女は、遠回しにではあったけれど、こんな内容のことも言った。読んでいるときの私はまわりの人間を完全にシャットアウトしている。というより、話しかけるなというオーラを漂わせている、と(だから読書しているときのあなたは感じが悪い、と間接的に言いたかったのかもしれない)。

読書はかなり能動的な行為だと私は思っている。
本を選び、静かな場所と時間を捻出し、活字を追い、中身を自分の中に沁みとおらせるのは受け身な姿勢ではできない。読む側は、本一冊を読み終えて初めて書き手の思いのすべて受け止めることができる。その最終地点にたどり着くまでには結構根気がいるし、時間だってかかる。

であるからして、読書中の人間というものは本の世界に集中しているのである。たとえばストーリーがクライマックスに達しているところでだれかに話しかけたれたりすると、顔は声をかけてきた人のほうを向くわけだが、意識の98%くらいはついさっきまで入り込んでいた本の世界に相変わらず残したままであり、残りのわずか2%ほどの意識でもって返事をするわけだ。本好きの人であれば、この意識の配分具合は身に覚えがあるのではないだろうか。

A子はアートやおしゃれが大好きで、沈黙が苦手で、生き生きとした動的なものを好む人だった。本も読むには読むが、とことんハマっていわゆる読書家になるほどではなく、幅広くいろいろなことに興味を示していた。中学では生徒会長に立候補して当選し、高校のときには文化祭の模擬店を主導する立場に立った。

B男は中学で洋楽にハマり、ピアノでいろんな曲をコピーをするようになった。大学でバンドを組み、社会人になってからもバンドを組んでキーボードを弾いていた。小学生のときに親の意向でピアノを習わされたが、楽譜を読もうとせず、母親が弾いてみせる音と鍵盤の位置を暗記してレッスンを毎回乗り切っていた。結局楽譜は読めずじまいのまま、バイエルをやっただけでピアノ教室をやめたのだった。

人にはそれぞれ持って生まれた気性、天性、性質がある。どんな養育者に育てられようと、人生でどんな出来事に遭遇しようと変わらない、あるいは変わったかに見えてもふとしたときに現れ出る本質というものがどの人にもある。

私は本だけではなくアートも音楽も大好きだ。
ただし、A子やB男とは異なり私は静寂をとても好む。人と話をすることが嫌いなわけではないのだけど、ワイワイと大勢で賑やかに盛り上がるよりも、ごくごく少人数で静かに語り合うほうがしっくりくる。相手が多数だと気持ちが発散してしまい、エネルギーが削がれる感じがするのだ。自分の外側に向かって発散するよりも、内側に集中していくほうが性に合っている。だから大勢で楽しく過ごしている真っ最中でも、ああひとりになって静かに物思いにふけりたい、と思うようなときがある。ひとりきりになることや、本を読んだり言葉を書きつけたりすることで内側に力がみなぎるタイプなのだ。

だから本を読んでいるときに突然話しかけられると、頭の中が急に切り換えられず、相手の言葉にいちおう反応はするものの、いかにも心ここにあらずといったふうの返答をしてしまう。心ここにあらずであるから、表情もきっと薄ぼんやりと焦点が定まっていないのだろう。くっきりと焦点の合ったコミュニケーションを強く求めるA子には、それが相手を小馬鹿にしたような、真剣味のないレスポンスに映ったのだろう。

だが、私にしてみれば、読書中の人に話しかけることは気配りに欠ける行為に等しかった。読むことに集中している人間が目の前にいるとき、私は絶対に話しかけたりしない。その人はいま本の世界に入っているのだから、そこに割り込んでこちら側の現実に引き戻すのにはためらいがある。よほど急ぎの用事でもないかぎり、私はその人をそっとしておく。それが私の考える思いやりなのだ。

気遣いがこまやかで、いろんな人との会話を楽しむのが好きなB男は最初、私のひとり好きに戸惑っていた。たぶん育った一族の中に私みたいなタイプがいなかったせいもあるのだろう。沈黙や孤独を積極的に好むようすが理解できないらしく、こちらが黙っているとなにか不満でもあるのかと、やたらと会話を試みてきたりした。彼もまた沈黙が苦手な人だった。「人と話したほうがいいよ」となにかにつけて私に言ったものだった。

だが、私にしてみれば、沈黙でさえも共有してもらえることが幸福のひとつだった。静けさの心地よさを理解してくれる人が必要だった。相手をひとりにしておく気遣いもあることを知ってほしかった。沈黙や孤独への志向をネガティブなイメージで捉えてほしくはなかった。

あなたはXが好き。私はYが好き。XとYはまったく異質なものだけど、Xをしているときのあなたはとても楽しそうだし、Yをしているときの私は幸福感に満たされている。
XとYの多くの部分が、ましてやすべての部分が、重なっている必要はないのではないだろうか。
重ならなくても、重ならないなりに、同じ方向は向けるのではないだろうか。

友だちだからって、なにからなにまで共感する必要も、共感するふりをする必要もない。
恋人だからって、それぞれの世界が隅から隅まで重なっていたりしたら、逃げ場がなくなって息苦しい。
親だからって、子どもを自分の一部のように、所有物かなにかのように扱うのは子どもに迷惑だ。逆に、子どもに理解できない世界を親がもっているのは正常なことだ。

それらをなんとか言葉で説明し、相手にわかってもらえないかと思いながらこれまで生きてきた。わかってもらったうえで、私はあなたとつき合ってゆけたらと思っていると。

それもこれも、同質性から生まれる理解につきまといがちな、甘ったるい居心地のよさに違和感をもってきたからなのだった。その裏には、必ずといっていいほど、途方もない排他性が隠れているからだった。

話を元に戻せば、要するに当時のA子もB男もこの私も、相手に同質性を求めていたのだろう。若いときって自信もふてぶてしさも不足気味だから、居心地のいい連帯みたいなものがたぶん欲しかったのだ。

人と人との関係はたぶん誤解からスタートする。
個として独り立ちをすること。
「違い」から理解をスタートさせること。

「孤独」は冷たいものでも寂しいものでもない。ともすれば荒れ地を独りぼっちで歩くようなイメージで捉えられがちだけれど、とんでもない、孤独ほど自由で伸びやかで、疲れ知らずに歩いてゆけるものはないように最近は思うのです。

こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。