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自分が嫌いで何が悪い

1年以上前にこんなnoteを書いたらしい。

ネガティブな自分を前向きに認めていこうと思います。
周りの人が欠点を見つけて責めてきたら
「あばたもえくぼで、かわいいでしょ」って言えるくらいにネガティブ万歳していきたいです。

なーんて書いている。

ダメでもクズでもなんでも「自分は自分が好き」であればいいんじゃん

とも書いている。

書いたこともすっかり忘れ去っていたのですが「スキ」通知が来たのをきっかけに読み返してみた。
今のわたしはこの時と考え方が違うなぁって思ったので、改めてネガティブ万歳!それでいいと思っていることを書こうと思う。

一番何が違うかって、このnoteですら「虚勢をはっている」と思うこと。

ダメでもクズでもなんでも「自分は自分が好き」であればいいんじゃん

は?
自分のことが嫌いで仕方ないお前が何を言うとるのだ!と。
結局、自分のことよく見せようとしてるんじゃないの?と。

いろんなことがあったら、そりゃ自分のことを好きになれない人は多いと思うのよ。結構まじめなひとほど自分を許せなかったりね。
テキトーに生きてたらそんな自分を許せてたりすると思うの。
「清廉潔白」な意識・ポジティブは正しさだと思うこと…そんな「真面目」なほうであればあるほど、自分を許せないことは多いと思う。
だって人は完璧じゃないから。
好きなところより嫌なところの方が目につくから。
自分が嫌な奴って知れば知るほど、自分を責めて責めて…許せない。

聖人たれ。
それは自分の嫌なところを正しくすることかもしれない。
けれど、人は聖なる存在にそうそうなれません。
だからこそ自分を嫌いになる。

至極まっとうな精神構造だよね。

そんなわけで「堕落しようぜ」っていうことを書いたのがこのnote。

正しくなくても清らかでなくても嫌な奴でも、それが人間だよ。
安吾の堕落論は、戦後に今までの倫理観を打ち破る「堕落」だったわけだけど
なにごとも「間違えず」「汚さず」「好意を持って」みたいな今までの倫理観はそろそろ心を蝕むって気付こうよ…みたいなことを考えている。
人間は多かれ少なかれ、間違えるし、嫌なところもあるし、汚れる。
それが嫌ならそれで離れるし他の面で尊敬したり好きになれるならそんな間違えとか「別にいいじゃん」って思っていたい。

こうやって考えるようになったのは実は

自分を嫌いでいいじゃん

と思うようになったから。
固定観念のように言われてきた「自分を好きになれ」とか「好きにならないと救われない」とか違くない?

最初に紹介したnoteでこう書いていた。

だから変わるべきところはただ一つ。
「嫌だなぁ」と思ってるのを「でもまぁそんな自分でもいいじゃん」と思うこと。
変わるのに使うコストも最小限でしょう!

そんなものにコスト使うな(笑

「私は自分が嫌い」
結局ここを「ま、嫌いなんだし」って受け入れる方がよっぽど精神衛生上良い。
自己肯定とかなんかそういう言葉で置き換えるとちょっと気持ち悪いんだけど、もし肯定したいなら「自分が嫌い」ってとこからじゃないのか。

とはいえ
「自分が嫌いなことを認めましょう」ではなくて
「自分を好きになるのをやめた」
なんだけど。
(ここは相当意識として差があると思う)

自分を好きになるのをやめたらね…
一気にいろんなことが、あほらしくなるくらい楽になった。

自分が「うわぁ」って思うことやってもさ、だから嫌いなんだよなぁ…で
それで【必要以上に】落ち込むこともなくなった。
次、気をつけようとは思うし、開き直ってるわけでもない。向上心はなくしたくないからね、人間力の面で。
けれど、そんな自分を好きになれないって自己嫌悪に苦しんだり、自分の行動をやたらと自分で非難することもなくなった。

あと良し悪しだけど「あー無理」って思った【友達】とサクサクさよならして
快適な感じにもなってきた。
同じ意見でかたまるとエコーチェンバーにはなるから気をつけようとは思うけど。
私にとって好きな人は考える人であって意見が同じ人ではない。それは良かったのかも知れない。

自分自身のやりたいことにすら全力を注げない人に使う時間が勿体ない。
自分の自由には責任が伴うよ。
その自分が自分でいるための責任すら負えない人を、私は友達に置いておけるほど余裕ないし、私がリスクマネジメントできないわけでもない。


「死にたい」って気持ちを否定すると、その追い詰められた最後の選択まで誰にも肯定してもらえないと、絶望する…という話と似ている気がした。

自分を認められない・嫌いというネガティブな気持ちは別に「悪いこと」ではない。そもそも感情に良い悪いをつけるのがナンセンスだ。
だって「ただ生まれてくるもの」だもの、感情って。

他の好き嫌いにそーんなに目くじら立てないじゃない。
だってそこまで根が深い感情じゃなくて「好き/嫌い」って生まれるから。
ナスが嫌いっていっても「こんなに美味しいのに?食べてみなよ!」って言う人がいないわけでもないんだけど、「じゃ俺にくれる?」とか「入ってないの選ぼうか」みたいな話になるじゃん。
「絶対好きになれ」
ってなんで自分の時だけ色んな人に色んなところから言われなきゃならんのだ。

「嫌い」って感情を別に持っていても悪くないと思うんだよねぇ。
自分に「嫌い」を持ってるんだって選択、別に肯定してもいいんじゃない?

ただね、嫌いって気持ちはあんまり人を愉快にするものじゃない。
だから嫌いを持ってることを「言う」相手は選んだ方がいいと思う。
その気持ちを「別にいいんじゃん」って言ってくれる人だったりね。
自分の言葉は多くの「好き」に使った方がいいよね…

嫌いを共有して愉快になる人たちもいるけど、あんまり趣味がいいとも思わない。そもそも対象が「自分」な時点で、その嫌いを愉快に共有って相手どんなメンタルなんだよ…笑

いろんな場所から「価値観の変容がある」みたいな話を聞くけれど
固定観念って「自分は好きであることが良い」みたいな単純なところにもあるよね…と思った。

たとえ自分のことが嫌いでも幸せにはなれるんだよ。
現にけっこう気持ち的に楽になって幸せ感じられるようになったよ、嫌いでいいやって思ってから。


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まんがで書いたVtuber活動の中で、色々新しいことに挑戦中!
こんなアニメーションも作れるようになりました…



読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。