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「日本人」と「人間失格」

※このノートは中田敦彦氏の「Youtube大学」に大変影響を受けています。参考までにこちらご観覧ください。震えました。

【人間失格①】〜太宰治の最高傑作〜 
https://www.youtube.com/watch?v=9Lmy3cbQlGc
【人間失格②】〜最も日本人に読まれている小説〜
https://www.youtube.com/watch?v=4kxCUObbq5A
【人間失格③】〜中田と又吉の徹底分析〜
https://www.youtube.com/watch?v=Uo8x8P39HlA

1.太宰治という人は

太宰治、本名を津島修治である。1909年に青森で生まれ、「人間失格」の連載が終わった直後1948年6月19日に亡くなっている。

このことから第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を経験し、文学界でも三島由紀夫をはじめ志賀直哉や川端康成などと時代を共にしていることがわかる。現代の私たちからするととても濃い時代だ。当時からするとどうだったかはわからないけどね。

また、太宰というと自殺愛好家、女遊び、暗い人物という印象の人が多いと思われる。かくいう私が太宰の作品に触れ始めたのもその印象のせいである。私はバッドエンド、悲劇のような物語を好んでいたために「人間失格」を読んだのは自然な流れである。YouTube大学でも言われているが「人間失格」は日本で最も発行されている本なのだとか。そりゃすごい。太宰も自殺しなかったら芥川賞取れてたのかな。あぁでも自殺したから注目されてるのかも、、、皮肉ですネ。


「人間失格」はフィクションという位置だが、これは自伝的小説であるとも言われている。この小説の設定があまりにも太宰の人生と似ているからである。父親の描写や女給との心中未遂が大きな理由だ。確かに似てる。しかも他にもっけこうあるの、似てるとこ。

この小説がこんなにも日本人が読んでいるということは、太宰が血肉を削って作り完了と同時に自殺したことから、太宰がこの作品を世間に知らしめたいという思惑どうりであることが伺える。ということは私が今このノートを書いていることも思惑通りで、、、なんか哲学。



2.「人間失格」

「人間失格」は太宰が死去する直前の1948年3月から執筆され始めた。この小説は①はしがき②第一の手記③第二の手記④第三の手記⑤あとがき、と5部構成である。ここでは簡単に、めちゃくちゃ簡単にあらすじを紹介していく。


①はしがき
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」から始まる。その写真とは3つの手記を描いた本人であり、主人公・大庭葉蔵である。

②第一の手記 
「恥の多い人生を送ってきました。」という言わずも知れたフレーズから始まる。葉蔵は東北の名家であり、政治家である父を持つ裕福な家庭で育つが、幼いころから道化(ピエロのように自分を偽りおどけること)を演じてきた。厳格な父を恐れ道化を演じた背景には当時の使用人から幼少ながら性的暴行を演じていたことも書かれている。

③第二の手記
中学で竹一という少年に出会い道化を見破られたことから監視を目的に二人は友人となる。葉蔵からみた竹一は物事の本質を見破る人物として描かれ、竹一は「君は女から好かれるよ。」「君はすごい画家になる」などの言葉が葉蔵には予言のようにこびりついていった。東京で高校に通い始めると学校を抜け出し画塾に通うようになる。そこで出会った堀木という男とつるむようになると酒、たばこ、売春、質屋、左翼思想、などに入り浸るようになるがそのころに父が政治家を引退し生活が苦しくなるが葉蔵は生活を変えることができずにお金が底をつき始める。そのときカフェの女給であったツネ子との心中を試みるが一人だけ生き残り「俺だけ死ねなかった」と残す。

④第三の手記
心中未遂のことが父の耳に入りヒラメという監視役がつくがそこから脱走し堀木のもとで出会ったシヅ子という子持ちの未亡人のところへ転がり込む。しかし次第に酒におぼれ、シヅ子親子のもとに帰りづらくなり行きつけのバーのマダムのもとへ身を寄せる。しばらくし、バーの向かいのタバコ屋にいたヨシ子という女性と結婚する。ヨシ子は葉蔵を信じ、何も信じることのできない葉蔵はヨシ子に惹かれた。しかしある日堀木と二階で話していたところ、ヨシ子が男に襲われる。人を信じるヨシ子は壊された、信頼は汚された、と感じ、徐々にヨシ子ともよそよそしくなっていく。ある日台所にヨシ子が買ったであろう大量の睡眠薬を見つけそれを飲み自殺を図る。しかし未遂に陥りアルコール依存、薬物依存へと続く。堀木とヒラメに促され病院へ行くがそこが檻にかこまれた脳病院であることに絶望し遂に、「人間失格だ、、、」と呟く。その後東北の僻地に療養するが父が死んだことを聞く。そのころ葉蔵は27歳であったが40代にみられるほど白髪だらけで老けていたという。

⑤あとがき
最後にマダムは「神様みたいな子でした」と締めくくられている。



3.「社会問題」と「人間失格」

いやぁ、「人間失格」を思い出せば思い出すほど怖くなってきて、、とりあえず家じゅうの電気つけて楽しい音楽付けました時刻は夜中の2時です。


さて、YouTube大学であっちゃんはこの「人間失格」を「社会問題の寄せ集め」と解釈していた。なるほど、と思った。ネグレクト(幼児虐待)、人格障害、酒・たばこ、売春、過激派、心中未遂、アルコール依存、薬物依存、的暴行、自殺未遂、、、、社会問題という社会問題が要素に含まれている。

そしてこのすべての要素を含む病気が、「境界性パーソナリティ障害」(動画では境界性人格障害といわれています)である。この病気は主に幼少期の虐待や愛情の欠乏が原因で引き起こされ、感情のコントロールができずひどく落ち込んで自殺騒ぎを頻繁に起こしたり、現実認識が低下し自分という存在・アイデンティティを喪失する自己同一性障害を引き起こす。

ここで余談なんだが、私はYouTubeでコメント欄を見るのが好き。コメント欄を見ているとあっちゃんは「境界性パーソナリティ障害」と「解離性同一障害」を混在している、と書かれていた。調べてみると、その原因や定義は似ているらしい。でもね、その発し方が全く違う。境界性パーソナリティ障害は他人に執着し激しくイライラしたり依存したりする。対して、解離性同一障害は自己の感覚を麻痺させ多重人格障害と呼ばれるような逃避の仕方などを見せる。

葉蔵は自殺未遂や他人への執着の点から、境界性パーソナリティ障害だと考えるが、幼児期から「道化」で繕ったり、一部の感覚の欠落や安定して穏やかな性格であったことから解離性同一障害だともいえる。しかし「人間失格」が書かれた昭和23年当時はこの「境界性パーソナリティ障害」も「解離性同一障害」も病気と認識されていなかったから太宰自身もわからなかったのだと思う。

あと竹一や堀木は葉蔵が作り出した別の人格だっていうコメントも面白かった。

あっちゃんはこの物語は誰しも自分と重なる部分があり一種の共感性を呼び起こしていると言っていたがまさにその通り。私は第一の手記を読むのが一番しんどかった。一番軽い(全体が重すぎてそうみえるだけ)のだが、たぶん自分に重ね合わせているのだろう。



4.「日本人」と「人間失格」

しかし興味深いのはそのあと。あっちゃんが悩みに悩んで相談した又吉直樹さんの言葉である。

あのな、「人間失格」はな、聖書やねん。

せ、せ、、聖書?


だよね、ははっ、、、。


実はこれ構造も聖書と似ており、キリスト教的思想がちょいちょい登場していた。この「聖書」をあっちゃん的解釈すると、

・「信頼するは罪なるや」という考え
・所々に出てくる祈りと自問
・敗戦直後に神道と国家の結びつきを否定された日本人の信仰喪失
・信仰の存在を失った(無宗教になった)
・信頼できる人物が登場しない物語と宗教のない国

宗教なんて、神なんて、壮大。でも考えてみると「人間失格」は日本で一番売れているが、世界で一番売れているのは他でもない「聖書」である。

大古に仏教を輸入し、儒教、神道と移り変わっていた信仰の対象を敗戦とともに一気に失い日本人は無宗教の道をたどる。信じれるのは自分の身であり、その自分さえも見失ってしまった日本人を太宰は婉曲なのか直接なのか、描き出している。

そしてその日本人が共感と信仰を求めてすがっているのが「人間失格」であると、あっちゃんは述べている。



5.「私」と「人間失格」

私が初めてこの著書を読んだのは、確か中学一年のころ。自分でいうのもなんだけど「優等生」だったと思う。子供の時にこういう経験をした人は多いと思うが私も道化だった。いつも明るく、誰とでも仲良くできる、おちゃらけてるのに勉強のできる子。その時の私はこう見えていたと思うし、こう見えるように振舞っていた。しかし優等生だった私は勉強が退屈だった。既に知っていることを授業で聞くのが眠くて仕方なかった。当時私はR指定のある、強烈な悲劇小説にはまっていた。金沢伸明や湊かなえ、山田悠介などだ。読み漁り、その暗い結末にどこか安心感を覚える自分がいた。その延長線上に太宰治はいたのだ。

最初に読んだのは確か「ヴィヨンの妻」だと記憶している。自信のない男、夫を信じ待ち続ける妻、衝撃的な展開を見せるわけでもなく淡々と進んでいくその悲劇は登場人物の誰とも共通点のないものの、どこか、絶妙なラインでの、共感性を生んでいた。

大学生になるころには太宰はシェイクスピア(やっぱりバッドエンドが好きなの)に並んで最も好きな作家であった。

しかしやはり「人間失格」は、喜劇のように振舞い、こちらから見ればただの悲劇であるのに、あどけてみせどことなく深く深く底なし沼のような暗さを感じる。「信じること」は罪か、それとも功か。

日本人は信じることに対して異常なまでに疑り深い。信じることを疑うなんて笑えるような矛盾だ。これは日本人の無宗教と大きくかかわる。絶対的で救済の対象である神の概念は日本人には存在しづらい。しかし宗教とは幸せになる一歩であると、私は思う。宗教に関する研究をしていると、本当にそう思う。宗教を疑い、嫌悪する日本人は自らバッドエンドに向かって歩んでいるのだと。信仰を失い、自己を失い、大それた不幸ごとや天気があるわけでもなく淡々と終わりへ進む。そしてその日本人こそが大庭葉蔵であるのだろうな、と強引ながらも感じている私なのであった。。。。



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参考文献・動画

【人間失格①】〜太宰治の最高傑作〜 

【人間失格②】〜最も日本人に読まれている小説〜

【人間失格③】〜中田と又吉の徹底分析〜

太宰治、集英社文庫、1990年「人間失格」


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