6.「素敵な5332日」

「素敵な5332日」

電車を降りて、耳にかけていた髪をおろす。
頬にかかる髪があると安心できる。
つまらなくなってしまった。
自分の部屋が嫌いで、いられなかった。
どうしようもなく捨てられない物ばかりがある。
桜ヶ丘にお気に入りの飲み屋があった。
1人で仕事終わりに行くのが定番だった。
店員に連絡先をわたされてから一気に興醒めしてしまった。
もうここはダメだ。
オフィスカジュアルに身を包み家を出る。
肩がぶつかって舌打ちをされる。

この街は臭い。うるさい。歩きづらい。
だけど好きだ。
わたしに焦点を合わす人はいない。

愛されようとしていないくせに、
愛されないと被害者面をしている。

悪夢みたいな5日間。
トイレで鏡を見るとき感じる、気味の悪さ。
誰だか分からない。
知らず知らずのうちに歳を取っていた。
名前を捨てることで、
時間を帳消しにしたつもりで生きてきた。
だが、わたしは確実に老いてきた。
名前を捨てるのは簡単だ。
名前を更新すれば、過去の自分は他人になるのだ。そうやって苦しみを捨ててきた。
ここでは誰にだってなれる。
防護服を着てゴーグルを付けてガスマスクをつけられる。
簡単に死ねる。簡単に生まれ変われる。
愛されていると思い込める。
存在している実感が湧く。
安心して呼吸ができる。
マイクを買えば会話ができる。
イヤフォンをさせば声を聞ける。
そうして出会った恋人の名前は知りたくなかった。
休日は横髪を軽くヘアアイロンで巻いて頬にそわす。
小さなバッグに財布だけを入れる。
ポケットにラメが入ったパープルのリップを入れる。
ゴールドのマニキュアを塗った指先を眺める。
電車に乗る。音楽を聴く。
目は無理に開けなくてもいい。






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