8.「改修工事中」

「改修工事中」


急行が運休なんてついていない。

いつもより早めに会社にいくから、
早めに家を出て、6時40分発の電車に乗った。
今日は7時30分には会社に着きたかったからだ。
その希望は叶わなかったが。
4時13分に異変を検知したとかで、急行電車が運休になったのだ。
各駅停車の電車に乗った。
結局いつもより遅い時間につく羽目になった。

電車の中ではいつもイヤフォンをつけている。
冬は好きだ。
コートでスーツを隠せるから。
意地だ。悪あがきだ。
誰にも分かってもらわなくていい。
誰も気にしていなくたっていい。
自分が安心できればいいのだ。

その日はとにかく急がなければならなかった。
1分でも早く、会社に着かなければならなかった。

渋谷駅で急いで乗り換える。
いつも以上に大混雑。
勘弁して欲しい。
「自分はなんて間の悪い人間なんだろう。」
以前ならば、そう思っただろう。

だが、今のわたしは違った。
中途採用で入社した会社での自分が、
少しだけ好きになっていたから。
何事も慣れというのは、時に怖いが、
基本的には良いものである。
何をやればいいのか見えない時期が1番辛い。
どう動けば分からない上に、すぐに失敗をする。
そうして次第に身動きがとれなくなってしまうのだ。
就職をしたり、アルバイトをしたり、
すぐに辞めてしまう人は、そこから抜け出せない人が多い。
幸いわたしは、少しずつ慣れてこなしていくことを覚え始めていた。
社会に慣れることができてきていることに違和感があった。
そして、嬉しかった。

自分のせいではないアンラッキーを、
自分のせいにしないで済むくらいには、
他人の目に触れる自分の輪郭を持てるようになっていた。

この頃わたしは、
大学生の時から使っていたLINEのアカウントを新しいアカウントに作り替えていた。

きっかけは、大学4年から今の勤務先に就職するまで2年間付き合っていた元カレが、LINEを消したことに気づいたことだった。
なぜかポッカリと心に穴が開いたような気持ちだった。
自分の都合の良さが気持ち悪かった。

交際関係を解消してからも、時折彼からはメッセージが来ていた。
返信はしていた。何故だか安心できたから。
だが、それから会うことは1度もなかった。 

5つも年上のくせに子供みたいに夢みがちなところを、別れの理由にした。

わたしは中途採用で、
人生で初めて正社員としての就職をしたばかりだった。
彼はというと、契約社員として勤めていた会社を辞めて、経歴をうまく誇張した履歴書で転職活動をしていた。
いつかは自分で会社を作りたいと言っていた。
その頃には、
彼の人に流されない自由さも、
口がうまくて自信家なところも、
世渡り上手なところも、
全部羨ましくて嫌いになっていた。
好きになった理由はそこにあったのに。


乗り換え改札に入ろうとした時、
後ろ姿ではあったが、見覚えのある長身で猫背のロン毛が横目に入った。
一瞬体が硬直した。
彼はわたしと同じ路線に住んでいて、
たしか転職して銀座に勤めていると言っていた。
銀座線は改修工事中で、ホームへ向かうにはJR改札の横を通らなければならなかった。

平静を装い、改札を抜けた。
イヤフォンから流れるのは、
聴き慣れた曲のはずだ。
どうにもこうにも落ち着かなかった。

電車に乗って16分。
結局予想通り、駅についたのは、
ギリギリの時間だった。

小走りで会社に向かった。

コートを脱ぐのが、嫌で嫌でたまらなかった。
本当に彼だったのかは分からない。
だが、彼とわたしの1日が交差することが、
2度とないことだけは分かる。

羨ましくて、嫌いだった。
ずるいとさえ思った。
だが、彼がわたしの人生から消えていくなんて考えもしなかった。
ずるいのはわたしだ。

もしもまた会った時、
絶対に気づかれてはいけない。
しかし、堂々としていなければならない。
その時わたしには充実した毎日があって、
仕事を好きになっているのだ。
思い切ってショートヘアにしているのだ。
コートを脱いでも、平気になっているのだ。

絶対にわたしだとは、気づかせないように。





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