20.「自分が分からなくなったとき」に映画を観る理由

週5日、出社してパソコンとにらめっこするのは気が滅入る。
というか、朝ごはんも食べずに駅までダッシュして1時間かけて電車で会社に向かうだけでも気が滅入ってしまうんだけど。
できれば毎日、ゆっくり落ち着いて他人の心に触れて自分の心を知りたい。
つまり、日常から離れて、映画や本や音楽から感じ取れる「人の心」を自分のなかに染み込ませたいのだ。
毎日毎日、同じように起きて、会社に行って、残業をして、最寄駅のスーパーで値引シールのついたお弁当を眺めていると、自分のことが分からなくなってしまうのだ。
自分が「何を求めていて」「何が好きで」「誰と友達で」「小さい頃に受けた愛情はどんなで」「学生時代は何に夢中になっていて」「何を夢見ていたか」……とか。
全部全部分からなくなってしまうのだ。

とくに、コロナウィルスが流行してからさらに自分が分からなくなった。
何もないのに泣いてしまう日が増えた。
休みごとにしていた帰省もできなくなり、友達と会うことも極端に減った。
自我は、自分だけでは保てないのだなと思った。
私は人の感情の深い部分に触れて、自分の感情を確かめていたのだなと思った。

土曜日にぶっ続けで映画を観た。

「ガール・イン・ザ・ミラー」
「レイラ 売られた少女」
「ラブ&ポップ」

洋画だったり邦画だったり、ここ2年の映画だったり、20年以上前の映画だったりで統一性はないんだけど、とにかく心を揺さぶられた。
ここでは各映画に関しての感想は書かないので、タイトルでピンときたものがあれば、アマゾンプライムビデオで観れるので、ぜひ観てみてほしい。
観ていて私は、すごく泣いてしまった。
そして、涙を流している間、作品に込められた感情と自分の感情とがリンクしているのを確かに感じた。
そして、なんとなく最近感じていた「自分のなかのモヤモヤの正体」とか「自分にとって大切にしたいこと」とか、大切にして生きていかなきゃいけない色々をフッと思い出せたのだ。
映画ってすごーって思った。

映画だけじゃなくて、本とか音楽とかなんにでも、人の作ったものには「感情」が込もっている。
感情の深い部分って、本気で信頼し合った相手同士でしか見せ合えないと思う。
職場とか学校でいくら仲良くしている人がたくさんいようと、自分の一番根っこのドロドログチャグチャした部分を見せられる相手なんてなかなかいない。

でも作品からなら、親しい相手でなくても色々な人の深い根っこの部分を知ることができる。
そして、その根っこの感情と自分の根っこの感情がリンクすれば自然と心が震える。
「こんなところで涙が出るなんて」と、驚くこともある。
……自分ですら把握できない自分の複雑な感情をハッキリ感じることができる。

一生会うことも話すこともない誰かが作った作品で、一番身近なのになかなか理解できない自分の心の一部を知ることができるのだ。

最高の土曜日を過ごしたと思った。

そんな私にとっての「最高の土曜日」に対し、恋人は「生産性はないけど、充実してたんだね」と言った。

そんな言葉を聞いて、私は彼とは全く違う種類の人間なのだろうなと思った。
でも、これって悪い意味では全くなくて。
ただ、言葉そのままに「全く違う種類の人間だな」と思ったのだ。

世の中には、「自分のことをしっかりと把握している人」もいれば「自分を把握する努力が必要な人」もいるっていうだけである。
「ちょっとやそっとじゃ傷つかない人」もいれば「すぐに傷ついてしまう人」もいる。
「挑戦的な人」もいれば「保守的な人もいる。
「ニンジンが好きな人」もいれば「ニンジンが苦手な人」もいる。
「数学が得意な人」もいれば「数学が苦手な人」もいる。

ただただ、そんなようなことである。

1人でいると、「自分だけがおかしいかも」「自分だけがつらいのかも」「自分だけ何もないのかも」と思いがちな人も多いんじゃないかなと思う。

少なくとも私は小さい頃から、多くの人との違いに悩むことが多かったし、「他の誰も私の気持ちなんで分からないんだ」と感じることも多かった。

でも、そうじゃなくて、たまたま周りに自分と似た人がいなかったり、実は同じようなことで悩んでいても口に出さないから分からないだけであったり、そんなような感じじゃないだろうか。

人の心のなかを読めないだけで、実は同じようなことで苦しんでいる人はたくさんいるんだろうと思う。

一方で、世の中の多くの作品には、誰かの感情が染み込みまくっていて、インターネットでポチッと再生するだけで自分のなかに取り入れることができる。

とくに人に会いづらいこんな時代だからこそ、自分を分かってくれる救世主みたいな作品にたくさん出会っていきたいな。

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