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98歳のおばあちゃんとの別れ

 久しぶりの投稿になります。最近は仕事で色々なことが起こり、時間的にも精神的にも余裕がない日々。起床→家事育児→保育園送迎→仕事→保育園送迎→家事育児→寝かしつけ→元気があれば心理師の試験勉強やその他のインプットをしたいところが、最近はほとんど寝落ちする日々。1日が終わるのが本当にあっという間で、自分を振り返りアウトプットしたり、セルフケアの時間がとれておらず、あまり本調子ではない最近です泣。

 そんな中、先週の金曜日に父方の祖母が天国へ旅立ちました。

 98歳、10月の誕生日で99歳、数えでは100歳という大往生。

 週末は祖母と一緒に過ごし、家族でお見送りをしてきました。今日は家族で祖母を見送ったことで、私が感じたことについて残しておきたくて記事を書いています。

・笑顔が素敵でお上品なおばあちゃん

 私の祖父母は私の実家から車で1時間ほどの他市に住んでおり、祖父の他界後、祖母は一人暮らしをしていましたが、一人での生活に不安があり、私の実家の隣に住むことになり、両親が買い物などのサポートをしながら生活。そのタイミングで私が社会人になり、家を出て暮らしたい、祖母も一人では心配、ということで私が祖母の家に住まわせてもらうことになり、祖母との二人暮らしがスタートします。

 祖母は、笑顔が素敵で人とお話することが大好きなお上品な方でした。小さい頃はなぜか「おばあちゃん」ではなく「おばあちゃま」と呼んでおり(両親に言われてかな?)今思えは、「おばあちゃま」という呼び方がぴったりな方でした。猫をこよなく愛し、きれいな顔の男性が好みでお相撲では「寺尾」という力士のファンで、お相撲さんを見ては「きれいな顔ね」と話していました。食べ物は肉食系でトンカツやビーフステーキとアイスが大好物。トンカツは薄いお肉をきれいに重ねてパンの衣をつけて揚げるという自己流。トンカツ用の厚いお肉に比べてとても食べやすいのです。帰宅すると「今日はトンカツよ。」とにこにこしながらパン粉をはたいて料理する姿を思い出します。お世話好きで、朝なかなか起きない私を階段下から「起きなさい」と起こし、不機嫌な私は「も~う、うるさ~い」と反抗してしまうことも日常茶飯事。今、思えば反省。。猫が大好きで、敬老の日に猫の本を買って渡すととても喜び部屋に飾ってくれていました。実家で買っていた猫もよく預かってくれていました。

・自然な流れでのケアハウスでの生活

 しばらく実家の隣の家で暮らし続けますが、数年後(今から10年前くらい?)、身体能力が少しずつ低下、物忘れも目立つようになり、デイサービスやショートステイに一時的に通ったりしていましたが、両親の介護負担もあり、家から出て、ケアハウスで生活するようになりました。たまたまショートステイで利用したケアハウスに空きが出て、母の友人だったケアマネさんから情報を聞き入居を決めたという経緯だそうです。ショートステイ利用でその場所に慣れていたこともあるので、祖母にとっても環境の変化によるストレスはそこまではなかったようです。ケアハウスは実家から車で20分くらいの場所だったので、定期的に会いに行きました。お得意のお習字をしたり、夏祭りでは盆踊りを踊ったり、穏やかに過ごしていました。面会に行くと介護士さんやケアマネさんが「〇〇さんはこの字を書いてくれたんですよ」と作品を見せてくれました。娘が生まれた時は、いつも以上に笑顔を見せてくれました。「赤ちゃんボランティア」という言葉を介護業界で最近よく聞きますが、赤ちゃん効果ってすごい。娘も姪も「ひいばあばに会いに行く!」と、ケアハウスの喫茶店でひいばあばとおいしいアイスを食べるのを楽しみにしていました。

・2年前からコロナでの面会制限

 年齢を重ね、認知症が進行し、父(息子)・母・孫のこともあまり分からなくなってきた祖母。それでも手を握って「おばあちゃん、〇〇だよ」と顔を近づけて話すとにっこりしてくれていたのですが、2年前からはコロナ渦での面会制限。ケアハウス側の提案で一度、zoomで面会をしたこともありました。まさか90代でオンライン面会を経験するなんて誰も予想しなかったこと。直近では15分間アクリル板越しで、マスク・フェースシールドを付けてという制限の中で面会をしていました。昨年生まれた息子を会わせにいきましたが、アクリル板越で反応はほとんどなし…。直接手を握ったり、息子の顔を近づけたりしたらもしかしたら反応はあったのかな?と思うと悔やまれます。おそらく息子の記憶には残っていないかもしれませんが、大きくなったら息子に話をしたいなと思います。

・祖母の生命力のすごさ

 そんな中、大きな変化なくケアハウスで暮らし続けていた祖母ですが、2年前の96歳の頃にケアハウスでの転倒事故がありました。忘れもしない出来事。夏に家族旅行を予定していたところ、ケアハウスから親に連絡が入り、救急搬送され脳出血をしていると。急遽旅行をキャンセルし、病院に会いに行ったことを覚えています。

 生命の危機を感じましたが、幸いにも、短期間の入院を経て、退院することができました。しかし、身体能力はかなり低下。びっくりしただろうし、痛かっただろうな…と思うと胸が痛みます。その後も、別の疾患で入院・手術をすることがあり、それと同時に食欲も低下しており、頻回にケアハウスから連絡がくるようになったのです。

 そしてちょうど1年前。訪問診療の先生に、食欲低下しており、もしかしたら、もうあまり長くないかもしれないと言われたそうです。それから、私の両親は、「母の最期をどうするのか」について具体的に考え、看取りは祖母が10年暮らしたケアハウスですること祖母の負担を考えた上で延命治療はしないこと、を決めました。

 しかし、私たちもあと少しなのかな…と覚悟を決めながら日々を過ごしていましたが、「食欲がまた戻ってきた」などの連絡をもらうことも増え、昨年10月になんとか無事に98歳の誕生日を迎えることができました。

 祖母の生命力は本当にすごい。

「おばあちゃんならこのまま100歳まで生きられるよ、100歳迎えられたら実家でお祝いしたいね」と家族で話していました。

・最期は家族に囲まれて

 数ヶ月間は大きな変化なく過ごしておりましたが、先週末「また食べられていない」との連絡がきます。

 両親が面会するとほとんど反応がなく、ケアマネさんからも「お孫さんも早めの面会をした方が・・・」と言われ、急遽仕事を調整し、私は7日(水)の朝、姉は9日(金)の朝に会いに行きました。一端家族は帰宅しましたが、バイタル低下し、息が荒くなっていると連絡あり、夕方両親が再度向かいました。母からの連絡で仕事を終えて私もケアハウスに向かっていましたが、その間に祖母は亡くなってしまいました。

 両親に見守られながら、苦しむこともなく、眠るように逝ったそうです。

 危篤状態からはあっという間でしたが、両親が最期に立ち会えたことは奇跡だと思います。

 翌日、納棺師さんによる納棺の儀式に立ち会いました。祖母の体をきれいに洗い、アロマオイルをつけたり、髪の毛を洗って、お化粧をするなど、「おくりびと」のような経験をさせてもらいました。コロナ渦、面会制限があった中で、こんなに近くに祖母に触れられたのは本当に久しぶり。綺麗な姿で、お棺に入り、家族に見守られながら旅立っていきました。葬儀場には、ケアハウスでの思い出の写真や姪っ子からのお手紙、看護実習生からのお手紙などが飾られていました。小さい頃の写真も動画で流れ、昔の思い出が蘇り、祖母の優しい笑顔を思い出しました。

 ケアハウスで穏やかに暮らしていた祖母がもういないと思うとまだ信じられませんが、最期に祖母と一緒に近くで過ごせたこと、みんなで祖母のこと思いながらお見送りができたことは、本当によかったです。両親が1年前から、最期をどう過ごすかということを考え、準備していたことで、心の準備ができ、家族もしっかりと「祖母の最期」と向き合えたのではないかと思いました。

 人は必ず人生の最期を迎えますが、どのような最期を迎えたいかを考えることは、どのように生きたいかを考えることだなぁと。

 週末は悲しいお別れでしたけど、こんなに心温まるお葬式ははじめてでした。生きることについて考えさせてくれた祖母。

 おばあちゃん、98年間本当にお疲れさまでした。

 天国から見守っていてね。

 私も自分の人生に悔いのないように生きます。

 そして、今日は娘の3歳の誕生日。

 この世に生まれたからには、祖母の分まで思い切り人生を楽しんでもらいたいです。  




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