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永井玲衣さん(哲学研究者)と対話して考える「台所サイズの哲学」

先日、哲学研究者である永井玲衣さんをゲストにお迎えし、前半・後半の全2回にわたるVoicyを収録しました。「手のひらサイズの哲学」を提唱し、日常から生まれるふとした疑問について、参加者同士が対話し合う場を提供する永井さん。私は彼女のことがずっと気になっていて「ずっとお話を伺いたいな」と思っていました。

20年以上料理をするなかでも、不思議に思うことはたくさんあります。そこで、Voicyでは、様々な料理にまつわる問いを、永井さんとともに考えてみました。様々な疑問を通じ「自炊」と「哲学」の共通する点があぶり出される、とても面白い収録になりました。今回のnoteでは、私と永井さんの対談を、ダイジェスト版でお届けします。

自炊にも哲学のタネは埋まっている


山口:去年2022年の11月に永井さんのッセイ『水中の哲学者たち』を読みました。哲学はずっと難しいイメージがあったのですが、「手のひらサイズの哲学」という言葉が印象深くて。
 
その後B&Bで開催された永井さんのトークイベントに参加した際、「ケア」にまつわる話をされていたので「私の活動に通じるのでは」と思いました。
 
永井:「手のひらサイズの哲学」という言葉に反応いただけて嬉しいです。「哲学」というと「愛とは?」「生きるとは?」のように強い問いを立てるイメージが強いですよね。でも私は自分の手のひらに収まるような、日常から生まれる問いを大事にしたいんです。自炊も日常的な行為だからこそ、哲学のタネは埋まっていると思います。
 
山口:「なんでこんなにたくさんの人が、自炊に悩んでいるのか」という問いは常に感じています。たとえば、日本ではまず献立に悩む人が多いですが、私は「献立に悩む」ということがないんです。冷蔵庫の中身を見て、体が勝手に動くというか。
 
もちろん、そういったオートマティックな動きが身についたのは経験によるものだ、とは分かっています。でも「体が動く」感覚さえ共有できれば「悩まなくて良いんだ」と気づいてもらえると思うんです。
 
永井:確かに料理ができなかった頃は、レシピを決定して食材を集める段階からすでにハードルが高かったのを思い出しました。でも、慣れてくると具材を見ただけで、脳内で想像が膨らむようになりますよね。
 
山口:そうそう。自転車の乗り方と一緒で、何回か転ぶうちにコツをつかめるようになるんです。あるいは体育の授業と同じ。体育って教科書中心ではなく、体験ありきじゃないですか。料理も体を使うことなのに、なぜか教科書、つまりレシピが先行してしまう。
 
たとえば「中火ってどれくらいですか」と聞かれるものの、説明が難しいんです。正直、火加減は食材の分厚さや使うフライパンの大きさによって違うから。マニュアル的な解説をするほど、実地からは離れていく。「どうやったらその差を埋められるんだろう…」とは悩みます。
 
永井:「適量って何なんだよ!」ってね(笑)。本当は、身体値を数値化できない領域なんですよね。この世にマニュアルや説明書は数多くあれど、料理に関しては「キツネ色」のように文学的で、主観に寄り添った表現をしている。
 
でも、私はそこに希望を感じています。どんどん数値化して行く社会の中でも、パーソナライズできる行為だからです。そのありがたい事実がそこまで共有されていないのが、「料理離れ」とも関係しているんじゃないかな、と思います。
 
山口:そもそも「おいしい」にも個人差がありますよね。コンビニのご飯と私が自炊した料理を並べて10人に食べてもらった時、たとえ半数以上が「コンビニの方がおいしい」と答えても、私にとっては「自炊がおいしい」となります(笑)。
 
永井:そういえばラジオで「哲学対話」を行うための問いを募った時、視聴者から「なぜ家で食べるカレーライスはおいしいのか」という問いが送られてきたことがありました。
 
おそらくその人が指しているのは自炊のカレーで、しかも凝ったスパイスカレーではなくカレーライス。必ずしもおいしいと「思わされている」わけではないからこそ、面白い問いだと感じた記憶があります。
 
山口:そこで「思わされている」と「素直に思える」ことの差ってありますよね。作るまでの過程を含めて口にする。それはコンビニのご飯や外食では得難い体験であり、自炊の価値では、とも思います。

カップ麺をどんぶりに移す行為も自炊的


永井:山口さんの中での「自炊」という定義は、自分で作った料理を自分や家族と食べる、ということですよね。

 
山口:厳密には「家で美味しく食べるためにアクションを起こすこと」が自炊的行為だと捉えています。外食は自炊ではありませんが、外で買ってきたお惣菜やカップ麺に「ちょい足し」をすることも自炊です。カップ麺の湯量や待ち時間を変えるのも自炊だと思います。
 
永井:カップ麺を普通のどんぶりに移し替えて、美味しく食べるのも自炊?私はよくやるのですが。
 
山口:自炊的行為です!要は「おいしくしよう」というムードですよね。科学的にはどんぶりに移そうが移すまいが、美味しさの数値に変化がないでしょう。でも、どんぶりに入っているとなぜかおいしいじゃないですか。
 
永井:なるほど。変化を与えること、そしてよりおいしい方に変化を加える行為が「自炊的」なのか。
 
山口:もっと話を広げると「もう少し酸っぱい方がいいかな」や「コショウを入れた方がいいな」というパーソナライズをしていくのも、自炊の醍醐味だと思うんです。もちろん、一回は自分でレシピをなぞった方が手順も把握しやすいです。ただ、縛られすぎるとパーソナライズする隙が一切なくなってしまいますよね。
 
永井:社会的な「正解を見つける」行為が介入してきちゃうんですね。私も哲学対話を開くたび、「話にオチをつける必要がない」「正解がない」ことに戸惑う人々を目にするんです。料理も哲学も、本来は自由な行為なのに。
 
しかも、料理は掃除や洗濯以上に意志決定が必要とされる行為。小さな決断をたくさん積み上げることを重く感じてしまう人は多いでしょう。だからこそ、正解を求めて「キツネ色」の度合いや、クシ切りの方法を検索しちゃうんだと思います。
 
土井義晴さんの「一汁一菜」は、単なるテクニックやライフハックの話ではなくなりますよね。そういった「正解」という呪縛からの解放だと捉えられます。料理の考え方を根本から変える、赦しの力をもつ思想だと思います。
 

哲学も自炊も、もっと自由になって良い


 山口:永井さんの「呪縛からの解放」という捉え方はすごく的確だと思いました。というのも、私も自炊を自分や他者への「ケア」だと思っているんです。本来であれば人をプラスの状態へ変える行為のはずなのに、料理でネガティブになってしまう人があまりにも多い。
 
哲学も自分を見つめ直す「セルフケア」の行為だと思うのですが、なぜ最近、哲学が注目されているのでしょうか?
 
永井:大前提として、哲学はずっとブームなんです。本屋には必ず哲学コーナーがあるし『超訳・ニーチェの言葉』をはじめ、何年かに一度、ドカンと大きなブームが来る。大抵は過去の哲学者の考えをビジネス的思考に活かす本が多いですが、最近は哲学を「する」本がちょっとずつ出てきているように感じます。
 
山口:なるほど。でも哲学を「する」ってなると、身近な友達とも共有しにくいですよね。突然「死についてどう思う?」って聞くと、心配そうな顔をされますし(笑)。
 
永井:10代の頃の経験としても「哲学的だね」ってちょっと突き放す言葉なんですよね。「なんでこんなにクサす(貶す)んだろう」と疑問に感じていました。
 
でも、哲学対話という一つの「言い訳」に乗っかってくれる人は多いです。「哲学的な場だから、ここでは変なことも言っちゃいます〜」という場を作れば「そういうことなら…」と人も集まってくれます。本当はみんな、考えることが好きなんですよね。
 
参加者の多くは「自分が問いを出し、考えていいとは思っていなかった」という考えを持っています。自炊と一緒で「私なんかがレシピから離れ、自由に作っていいんだ」と主体性を回復していく。いかに大人たちの「解放の場」にするか、が肝になっています。
 
山口:「哲学の場なら話すことが許される」というのは不思議ですよね。ちなみに子ども向けの哲学対話の場だと、どうなるんですか?
 
永井:子どもの方が面白いことを言いそうじゃないですか。実はその逆で、子どもの方が社会的な言葉を話すんです(笑)。「学校に行くべきなのは、良い会社に就職するためだ」とか「人に迷惑をかけちゃいけない」とか。親や先生の考え方を壊し、「じゃああなたはどう思うの?」と問うていくと、徐々に「自分が考えていいのか」と気付き始めるんです。
 

自分の中に「作る自分」と「食べる自分」が同居している


 
山口:出てきた問いを自分ごと化してもらうために、永井さんはどういったことを意識していますか?
 
永井:誰かが傷つきかねない意見を全ては禁止せず、ルールを押し付けないよう注意しながら、問い自体を全員で吟味する場にしようとしています。難しいですが「その問いに自分たちが関わっている」という責任に、自発的に気づいてほしいんです。
                                                                                                 
山口:「責任」という言葉は重みがある一方、誇らしいものであるはず。でもそれが押し付けられている感覚をもつと、一気に嫌気がさすんでしょうね。だからこそ自分ごと化が難しいのだと思います。
 
永井:よく「ほうれん草の代わりに小松菜を使ってもいいですか?」というコメントも見かけます。「完成したものに対し責任をもちたくない」という感覚、強いですよね。自炊で失敗したから職を失う、なんてことはないのに。
 
山口:しかも、本来なら仕事で評価されたり褒めてもらえたり、という他者承認とは違い、自己承認の行為なんですよ。食べ終わった後の達成感は、何も変えられないんだけどな。
 
永井:自炊の達成感って、何に近いですか?
 
山口:登山に近いと思います。山を登ることは自分との対話だし、登りきるのは自分のためですよね。ただ、料理は毎日の繰り返しの中で上手にできる日があれば、それなりの日もある。その流れのなかに身を置くことに幸せを感じます。
 
永井:料理はゴールに至る文脈や全体性を含め「おいしさ」に繋がっていますからね。では、山口さんが自炊に惹かれるのはなぜだと思いますか?
 
山口:では永井さんは、哲学に惹かれるのはなぜだと思いますか?
 
永井:うーん、そういうことか(笑)。
 
山口:そうなんです、正直わからないんです(笑)。ただ、自分の好みは自分しか分からない。たとえ三つ星シェフでも「私の好きな味」をドンピシャで作ることはできないはず。
 
たまに「自分で作って自分で食べるの、寂しくないですか?」って聞かれるんですよ。でも私は自分の中にいる「お腹が空いた人」の話を聞きながら、ご飯を作るのが好きなんです。自炊は作る人と食べる人が一体化しているのが面白いんですよね。
 
永井:「寂しくないですか」っていう問いは、自分を単体で考えている人の考え方だなと思いました。でも自炊という行為を通し、たくさんの自分と同居していることに気づけるんですね。数値化されているレシピを再現することに苛まれてしまうと、そこまで目が行き届かないと思います。
 
山口:登山で「何分までにどこを登らなきゃ」と追われている感覚ですよね。本質に気づけなくなっちゃう。そうなると、普段から「コーヒーを淹れる」などの自炊的な行為に親しんでいる人も、自炊の楽しさに気づけなくなってしまうように感じます。
 

「なんで考えないんだろう」という根本を問いたい


 
永井:山口さんが活動を続ける中で、自分の軸となっている問いはなんですか?
 
山口:「自炊に対するイメージを変えること」です。私は自炊が好きで、「一生自炊」と「一生外食」なら前者を選びます。料理と一緒に生きる楽しみを感じています。
 
その一方、まだまだ「自炊に手間をかけたくない人」はたくさんいます。このまま料理をする人が減っていくと、今以上に生鮮食品を売るスーパーが減ってしまうかもしれない。私も大好きな自炊ができなくなってしまいます。「自炊」というカルチャーを守りたいからこそ、自炊する人を増やしたいです。永井さんの問いはいかがですか?
 
永井:私も「なぜ人と集まって話をすることがここまで難しいのか」が大きな問いなんです。一対一の対話ならまだしも、大人数になるとうまく考えられない人が多い。このままだと、対話ではなくネットの検索や、答えのあるものを求める社会になりそう。
 
私の活動は、山口さんの活動とも近いと思います。山口さんは「もっと料理しなよ!」ではなく「なんで料理しないんだろう」を起点に考えるじゃないですか。私も「もっと考えなよ!」ではなく「なんで考えないんだろう」という根本を問いたいんです。
 
そして哲学対話や書籍を通し「意外とみんな、日常でも哲学をしてるんだよ」と伝えたい。まさに今日、私が山口さんから「カップ麺をどんぶりに移すのは自炊的です!」と言われた時の気づきを共有していきたいです。
 
山口:ある意味で「べき論」を打破していく感じですよね。今、家庭料理の歴史を遡っているのですが、明治期の前半は男性も自炊していたそうなんです。戦時中に男性が家からいなくなって女性が家事を担うようになり、戦後の復興で「サラリーマン」と「専業主婦」が生まれました。
 
お金を稼がずに家にいることの罪悪感や、家電の発達で時間が浮いたことから、1970年代に一食あたりの品数が増え始めたようなんです。「お母さんが家でご飯を作るべき」という固定観念は、たかだか50〜60年の間に生まれたんですよね。
 
永井:面白い!AIが進歩しているのに、人々が浮いた時間を埋めるように働き続けるのと似ていますね。「なぜ罪悪感は生まれるのか」が興味深いです。あと、私の記憶だと家庭科の授業で、食材がデン!と並んだ写真とともに「バランスよく食事をとりましょう」と刷り込まれた気がします。
 
山口:うわあ、家庭科の授業って覚えてないです(笑)。でも、食事のバランスも「品数を増やすべし」という呪いに近いですよね。余裕がない日は、味噌汁の残りで作った雑炊でも良いのに。おじさんがマカロンを作っても良いし、大学生が塩辛を使ったおつまみを作っても良いんですよね。だって、家の中に家族以外の他者の目は入ってきませんから。
 
永井:自分をジャッジされている気分になるのは不思議ですよね。きっと料理をする人が「品数を多く作ってくれる、優しい専業主婦のお母さん」という架空のイメージを抱いているからなのかな、と。そういった「幻想」をなくすために、どのようにアプローチしていけば良いんだろう。
 
山口:私が自炊を教える時に「やたら楽しそうにする」ことを意識します。一般的な料理教室って「今日は何を作り、材料はこれ」と隙がないですよね。だから、レクチャー中に焦げてしまった時も「こうすれば大丈夫」という教え方をしています。「今日初めて料理する気持ちでやってください!」と、楽しみ方を知ってもらうようにしています。
 
発酵デザイナーの小倉ヒラクさんとお話しした時「先生的な立場ではなく、もっと“読モ”のような、先生と生徒の中間にいる存在でありたいよね」とおっしゃっていて。料理界の読モを目指したいです(笑)。


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永井さんとの対話を通し、改めて「哲学」と「自炊」の共通項の多さに驚き、発見の多い収録でした。本当にお話ししたかったからこそ、対談が実現して嬉しく感じました。
私にとっては自炊レッスンも、私自身が気づかないような料理に対する問いを集めるための機会。自炊をこれから始める人から、多くの問いが寄せられるたびに尊さを感じています。
これからもたくさんの問いだけではなく、私自身から溢れる問いにも向き合っていきたいです。


みなさんのサポートが励みになります。 「おいしい」の入り口を開拓すべく、精進します!