日本人のぼんやりした信仰は、積極的に守った方がいいのではないか

まだあまり自分の中でまとまっていないのだが、現代の日本人の多くの人が持っていると考えられる「ぼんやりした信仰」と、他の排他的な宗教の関係が、トランスの女性スペース使用問題における女性体と男性体の関係に似たところがあるのではないかと思ったので書いてみる。(トランスジェンダー概念について書いた記事はこれ)(日本にある仏教や神道のいろんな宗派で派手にドンパチやっていたことは過去のこととして認識している)

まず、私は、信仰というものが、人間の生活に必要なものだと考えている。日本人のぼんやりした信仰は、ぼんやりしながらも人間の生活に必要な信仰の役割をそれなりに果たしている。これは前提としたい。

私は生物学の勉強をしたことがあって、進化論は妥当な話だと思っているし、自然科学は宗教だなんていう人は一体自然科学の何を知っているんだろうという感じで思っている(自然科学を宗教のように扱う人がいることは否定しない)。一方で、私は仏教と神道のごちゃまぜになった信仰を持ち、八百万の神々をなんとなく意識ながら生活し、仏式や神式の葬式で親戚や知人を見送ってきた。寺や神社や仏像が結構好きで、意外と信じてもいる。どれくらい信じているかというと、結婚式も神社で挙げたくらいだ。ついでに実家の氏神様のところで毎年一回引くおみくじも、占い的なものの中でこれだけはかなり信じている。仏様は、例えば「地蔵菩薩は如来になる資格があるけどわざわざこっちの世界にとどまって人間を救ってくれている、親より早く死んで地獄に行った子供達を守ってくれる」というそれだけで信じるに足る。あと仏様は祟らないから、怖くなくて好き。私は比較的信仰心の自覚が強い方だとは思うが、ベクトルとしては日本人のマジョリティに近いのではないかと思っている。

私は私のぐだぐだな信仰が守られて欲しい。そのために、日本の神社や寺の扱われ方はあまり変わらないで欲しい。そして、排他的な宗教(イスラム教やキリスト教やユダヤ教等)の信仰は日本で牽制されていて欲しい。という気持ちが私にはある。そうでなければ私が持っているみたいな信仰は、攻撃性も組織性も厳密性もないので、他の宗教や思想に駆逐されてしまうと思うから。日本にずっと暮らしているあらゆる宗教の信徒の存在を認識していないわけではない。これからも少数派であって、これまでのような(?)共存する形を保ってほしいという感情を持っている。具体的にはその辺にある朽ちかけた祠でも無下にしないとか、ハラールはアレルギー対応まで、遺体は基本的に火葬する、とかだ。私は日本に暮らしている限り、この感情を肯定されたい。日本の中ではこの点でマジョリティとして安心したい。そのために考えている。

それにしても、日本人は、まず日本のマジョリティ(多分)が持つうすらぼんやりしているわりに強固な信仰が比較的「仲間をそれほど積極的には増やさない」「他の信仰を持つ人を積極的に否定しない」といった特徴をもつことから、地球上にある宗教(信仰?)の中では平和的という点で明らかに優れている、ということを自分たちではっきりと認めて誇るべきだ。そして、それらの特徴故に、排他的な宗教に対して脆弱であるということをはっきりと認識し、さらに、それらから積極的に守る必要があることを認識するべきだ。これは日本の魅力でもあると思うので、世界の中にある多様性の一つとしても失ってはいけないと思っている。日本人の信仰は、世界の中で大事にされ、守られるべきものだ。他の宗教に駆逐されていいものではない。

さて、ここ数年自分が注目しているトランスジェンダー概念の問題を考えていて思ったのだが、日本人のぼんやり信仰と世界にあるメジャーな宗教の関係は、トランス自認の人の女性スペース使用問題とかなり似た関係性にあるのではないか。日本人の信仰はアミニズムでもあるので「原始的である」とされる等、人種差別もあると思うが他の宗教を信仰する人から見下されがちで、かつ組織性がないので脆弱である。見下すくらいならまだしも、違う神を信仰する人間は人間として扱わない宗教を信仰している人も多い。日本にいながら日本の文化を尊重せず、土葬の許可を要求する団体もある。これは、日本の文化慣習やあらゆる事情を、自分達の信仰より格下で些末事であると認識していなければできない要求なのではないか。今の「多様性」の流れで新たに一度こういった要求を認めてしまうことは、その後のさらなる要求の呼び水になり得る。女性スペースに入りたがる男性体と同じ、といってしまうとさすがに乱暴だが、トランスジェンダー概念の弊害によって、女性スペースへの男性体の侵入が許可されたことは、その許可が無ければ防げた女性や子供への人権侵害の多発につながった(これは決してデマではない)。これをふまえると、「多様性」を理由に排他的な宗教の要求を呑むことは、より排他的で攻撃性の高い宗教の信仰者を呼び込み日本人のぼんやり信仰への攻撃を引き起こすという可能性は、考えておかなければならないのではないか。

もし日本でメジャーな信仰が、より攻撃性や排他的な性質を持っていたなら、ここまで警戒する必要はなかったかもしれないし、そもそも他教徒によるそこまでの要求ももっと黙殺されたりしていたかもしれない。他教徒の人数が増えれば、厳密に土地を区切って海の側に土葬許可を出すということもありえたかもしれない。しかし、「ぼんやり信仰」はそんな風に戦えない。ぼんやりしているがそれなりに強固なので、思いのほか強い反発によってなんとかなったり、「なんとなく」で他教徒の要求をつぶす可能性はあると思ってるが、油断はできない。

(「多様性」は中身をもっと考えるべきだ。本当は多様性の中身について記事を書こうと思っていたのだ。そうしたら自分の信仰についての気持ちが思ったより強かったのでこんなことを書いている。多様性が高いことは集団の強さにつながるし、何より面白い。私自身も多分、人間の個性や健康などといった種類の属性の多様性は認められ包摂される社会である方が単純に暮らしやすい。しかし、ある程度多様性を高いまま保つためには、ある程度のサイズの文化や社会を囲って守る壁のようなものが必要だと考えている。それがなければ「強い」属性に「弱い」属性が駆逐されて、多様性が下がってしまったり、混ざりすぎて全体的に均一になって多様性が下がってしまう。基本的には、ベースの属性があり、そこに違う属性の人が混ざっている、集団としてそれを寿ぐ、という形式が良いのではないかと考えている。男女比とかの問題はまた別の問題であることもあるので本当にケースバイケースだけど)

日本人のぼんやり信仰には非常に価値がある。むしろ世界平和のために広めた方が良い。多分私の信仰は強すぎる。自分無宗教っすよって言えるくらいのぼんやりがいい。このぼんやり信仰は大事に守られるべきだ。そのために、当面の間、宗教について、日本という国は、(仏教や神道含めて)強く信仰する特定の宗教がある人にとっては居心地が悪い国、くらいをキープするのでちょうどいいのではないだろうか。なので宗教に関する制度面での要求は、できる範囲で対応する程度で、それ以上は吞まなくていいと思うし、日本に定住する人には日本の文化慣習を尊重し、自分の子供や他人に自分の宗教を強くは押し付けないことを誓約してもらった方が良いと思う。

日本人のぼんやりした雑な信仰を誇り、積極的に守ろう。

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