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「言葉」は、主人公じゃない。

言葉を紡ぐ。それすら正解と言えるかどうか。
分からないのに本当に皆言葉を信じたがるものだ。

今、世界には昔より言葉が溢れている。
当社比2.5倍くらいの感覚値で、どうやら浸かって溺れてしまうくらいにはあるようだ。皆その潮流に翻弄されて右往左往している。

それもこれも、皆額面通り言葉を受け取ってしまうからだ。
言葉は元々、気持ちを乗せる乗り物として生まれた。だから、その裏の気持ちを読まなければ本来、意味がない。そんな簡単なことを皆、忘れてしまっているだけなんだ。

自分の気持ちを言葉で100パーセント表現できている、と思う人はどれくらいいるのだろう。良くて80%くらいか。せいぜい50%くらいか。そもそも考えたこともないか。

自分の言葉ですらそんなもんだ。今口に出したり書きあげたものでも、どれだけ的を得ているものかしれない。
ましてや他人の言葉なんて、どれだけ信頼できるものなんだろうか。それなのに、自分のことは置いといて、なぜ他人の言質だけはとりたがるのだろう。

言葉は、主人公じゃない。ただの乗り物だ。本来の主役である気持ちが乗り遅れたり、乗り忘れたり、違う思いを乗せてきてしまうことだってある。

それを忘れた論争を見るたびに、あぁ、こういう時のために、国語の時間に「作者の気持ちを答えなさい」なんて問題があったのかと、僕は思う。

でも、捨てたもんじゃない。人には文脈を読む、という能力がある。行間を読む、という特技がある。言葉と言葉、文と文の間には、助手席に乗せ損ねた気持ちや、バックシートに積んだつもりで落としてきた想いが方々に落ちている。
ひとたび、それに気づけば相手の気持ちが、言葉なんていう乗り物に乗ったものだけじゃないと気づくだろう。それを丁寧に拾うんだ。

想像力が大事というが、そうじゃない。そんなに軽いもんじゃない。想像力こそが、知性だ。
知性をもった人間なら、相手のことを慮るなんて、当たり前のことなんだ。

どうか、気持ちにスポットが当たる時代がまた来ますように。

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