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見る側への配慮として、自身の写真について語りすぎない方が良いのではないか

写真に言葉は必要ないのではないか、という文章を以前書きました。今回は、見る側への配慮として、自身の写真について語りすぎない方が良いのではないか、ということを書きたいと思います。

インスタグラムで私の写真をたまたま見つけて、このような写真でも良いのか、と驚かれた方が居ます。このような写真、とは、SNS映えしない、キャプションやタグを付けない、素の写真でしょう。きっと素うどんのような写真。

私が声を掛けて、お電話をしてやりとりをさせて頂いたところ、私の写真からのイメージと現実の私とのギャップに戸惑っていました。私の写真から、私を物静かな人物だと思っていたようです。
私はお喋りで、特に写真に関しては饒舌になります。写真のことなら一晩ぐらい語り続けられそうです。
それで、申し訳ないことをしたな、と後日、反省をしました。写真を見る側の自由があって、好き勝手に見る楽しさを奪ってしまったからです。

創作の秘訣というのがあり、他者からすれば、憧れというか、好き勝手に誤解をする権利があり、「秘するが花」という言葉もあります。寡黙ほど雄弁なものは無いかも知れません。

例えば、今、私は「ディファレンス・エンジン」というSF小説を読んでいます。イマイチ、よく分からないところがありますが(主に時代背景かしら?)、読んでいて頭の中に浮かび上がるイメージ、私の好きなフォールアウト3というゲームに似た感じもあって、楽しく読んでいます。

以前、私は、写真に必要なのは思想であり、哲学、在り方だと書きましたが、哲学は難しいですし、在り方なんてさらに難しいです。在り方を正確に理解出来る人はニュータイプぐらいしか居ないでしょう。つまり、認識のことですが、人はいつでもどこかで誤解をしながら生きています。
私は哲学書を読んでいて、理解したつもりになれません。優れていると感じる哲学書ほど、そのような傾向が私にはあります。すぐに理解出来てしまうのは、呆気ないと感じてしまいがちなのかも知れません。

先日、「蛇の道」という映画をYouTubeで見ました。初見、違和感があったので、2度見ました。やはり、色々とおかしな映画でした。話が破綻しているし、無理に話を繋げているし、とても変な映画です。
そこで黒沢清監督のインタビュー動画を見たら、スケジュールの都合で2週間程度で仕上げた脚本を、これまた1〜2週間程度で撮影したVシネマとのこと。黒沢清監督自身、「蛇の道」がヘンテコな映画なのを自覚していました。とにかく時間がなく、勢いで作られた映画のようです。

で、「蛇の道」が駄作かというと、名作か分かりませんが、私の心に残りました。私的に一言で言えば、面白い映画です。

紙粘土による造形作品が完成しました。私はもしかしたら、紙粘土による造形作品が向いているかも知れません。私は、絵画に少しは詳しいと思いますが、立体造形、彫刻に関して無知です。無知な人間が、無知なままに、粘土を捏ねて色を塗っています。

私は石が好きで、ただの石に惹かれます。お金になる石ではなく、道に落ちている石たち。それとフランシス・ベーコンの絵画作品における造形。しかし、私の造形作品はベーコンに比べるとポップです。パステル調の塗料を愛用しているからでしょうか、私の人柄かも知れません。

粘土による造形で、私のような物を作る人を、私はまだ知りません。通常、スイーツや動物、フィギュアなどのキチンとした物を作るかと思われます。私の造形作品は何なのか、塊であり、紙粘土を捏ねただけの物でしょう。まるで児戯。誰でも作れそうな、高度ではない造形です。

高度ではない、という観点は、私の創作に共通していることで、私は高度(技術)の必要な創作を避けています。写真はスマホカメラで、フィルターを使っているだけです。細かい加工をしませんし、撮影後に再トリミングをしなくて良いように撮影を行なっています。
環境音楽の制作にしても、最大4トラックで、ほとんど音を弄りません。EQも触らなくなりました。弾く時に迷わないので(迷う時は一旦作曲を諦めます)、だいたい1時間以内に打ち込みを終えます。後は聴き直して、主に音量調整をして完成なので、あまり手間を掛けていません。

今の時代、写真はスマホでもキレイに撮れますし、難しくありません。私が行なっている創作で1番手軽に始められるのは写真でしょう。
手軽に撮った写真をあれこれ語っても仕方がないのではないか、とも私は思います。しかし、私が一晩中語れるのは写真だけで、音楽や自身の絵、模型や造形に関しては、そこまで語れません。そういう意味では、思想や言葉が詰め込まれた写真たちなのかも知れません。

写真を撮るコツは、自身のスキキライを勘定に入れずに、惹かれるものを撮ることです。その時に、自身の見えた物を写真で再現すること、自分の眼を信じて、カメラレンズと擦り合わせることだと私は考えています。
熱意があれば、最初はあれこれと色々なものに惹かれて撮るでしょう。あれこれと撮り続けて、飽きてきて、それでも撮ってしまうモノが良い写真なのではないでしょうか。

私の場合、テーマやコンテキストは自身の環境音楽に依っています。そして、私の環境音楽の目的は自身の安眠で、音楽で表現している場所(地点)は私の心の底です。私の心の底には虚無があり、ニルヴァーナがあります。それを音楽で表現しています。そして、心の底にある虚無やニルヴァーナは人間にとって普遍なのではないか、と感じています。
このような環境音楽に依った写真であるならば、自身の深層心理、虚無、ニルヴァーナを扱うべきで、自身の深層心理、虚無、ニルヴァーナを語ることは出来ません。それらはいつでも潜在していて、言語化が難しい領域で、語られるとしたら、詩でしょう。

現代詩なるものは、常人には意味不明な言葉の連なりです。私が現代詩から離れているのは、現代詩を人間的だと感じるからで、言葉そのものが人間的だと感じてしまいます。
環境音楽における「音」は、メロディ的でなくても良い点で、人間的でなくても構わない自由さを感じます。
人間は素晴らしく、有機的なモノがエモいのかも知れませんが、無機に惹かれ、人間的なモノから遠ざかりたい人も居ます。
私の環境音楽は電子楽器を使用した電子音楽で、だからこそ私にとって有機的な曲を作れると言えますし、デジタルカメラ、スマホカメラだからこその有機性があるのではないか、と言えます。

人間的なるものから離れようとしている作品を作る私が、人間的なる言葉で自身の作品についてあれこれ語ってしまっては、興醒めしてしまうのは道理です。創作者として、語らない、語り過ぎない良心を大事にしていこうと思います。

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