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モーニング・モーニング

昨日、今日と早朝ウォーキングフォト、各小1時間。昨夜はグッタリしていたので、19時前に就寝、今朝は3時半頃起床。今朝はモーニング・ノートをやってみました。B5ノート2枚で30分。A4サイズ3枚は多いので、私にはこれぐらいの文量が適量に感じました。

早朝に何をするか?

プラモデル作りは継続しています。今朝は小さなプラモデルをいくつか筆塗りしました。
30分程度、1枚、絵を描いても良いのですが、まだ外が暗いので、暗い中、絵は描きたくありません。部屋に入ってくる日光の中で描きたいので、寝起きに絵を描くのは却下、散歩&写真撮影が適切なのかな、ベンチが濡れていなかったら、公園で読書も兼ねたいのですが、梅雨。

写真、新しい境地になってきました。何でも良いや、と。雨は濡れるのでイヤですが、曇天でも良いじゃないか、近所の何でもない写真で良いじゃないか、つまり、モーニング・ノートみたいなモーニング・フォト。

日の出、まだ涼しい。
散歩して運動不足解消。

写真、AIで批評してもらったり、写真に興味が出てきた友人と話したり、幡野広志さんの「うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真」という写真論の本を図書館で立ち読みしてみたり、そういう中で、私の中にそれらへの反発、反骨、精神が無垢無垢と現れてきたな、と感じていて、各々を言葉にすると、AIで批評してもらうと褒め上手、改善点を訊くとネットでよく見かける上手な写真になる、写真に興味が出てきた友人も出来ればカメラを手に入れて、キチンとした上手な写真を撮りたいらしく、幡野さんの写真は私写真的で、且つ、facebookに向いていそうな感じだと気付きました。

写真に限らず、絵にしても、私は上手い方向ではなく、身の丈に合った作品で良いと考えています。上手いのはAIに任せておけば良いのではないか、ネットにアップしている人達に任せておけば良いのではないか、と。
写真はちょっとしたコツを掴めれば、誰でもキレイに撮れます。なので、手軽に始められるクリエイトとして写真はオススメですが、クリエイトは上手を目指すべきなのか、私は模型作りにしてもプロモデラーなどを真似て、上手にキチンと作ることを良しとは考えず、自分が納得出来れば良いのではないか、下手さを残しておいた方がしっくりとくる、これは思想上の問題なのかも知れません。

乱雑さ。洗練されないリアリティ。

幡野さんの写真論に関しては、半分程度は共感出来て、半分程度は反発を覚えます。この反発は、幡野さんの人柄が私と合わないこともありそうですが、facebook的な私写真に根差した写真を理想と考えるのであれば、言葉は必須になってきますし、身内写真の延長線上で考えておられているのでしょう。幡野さんの写真に反発を覚えるのは、一言で言えば、孤独を感じさせないからで、だからfacebook的だとも言えるのですが、コミュニティとしての写真もまた写真ではあるので、これは好みの問題としておきます。

最近、図書館で「ラテンアメリカの民衆芸術(図録)」を借りて見ています。素晴らしい。こういう素朴な在り方に私は惹かれています。

写真に言葉を添える必要性、私的には言葉よりも音楽です。自作した環境音楽を写真展示会場で流したい。
ポートフォリオ、組写真として考えた時、何枚かお気に入りの写真、キメの写真があれば、後はほとんどなんでも良いな、と思いました。バシッとキメの写真だけではなく、この記事の最初に挙げた写真の中から適当にチョイスして並べても良いのではないか、と。
つまり、これは匂いだからで、ビシッとした匂いだけにしてしまうと、亜空間になってしまう、空白としての写真、微妙なニュアンス、気分があった方が良いのではないか、と気付きました。
部屋と部屋を経路する廊下的な、道的な写真をメインにすることで、見る側への導線になるのではないか、と思います。見るべき写真は見る側が決めれば良くて、こちらとしては、並べるだけで良いのではないか、一貫するムードとして、私の環境音楽をBGMで流しておけば事足りるのではないか、と。

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