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アーティスト、世間で評価されている他者への羨望が募ってきて、改めて、私の写真作品について、テーマを考えてみました

暑くなってきて、自己嫌悪感が出てきたようです。先週辺りまでの花粉症が治まり、生きている辛苦が精神に及ぶ、軽度な花粉症の方が楽だな、と思います。
私の場合、花粉症は頭痛、薬局の薬を1日1錠飲めば、そこそこ治まりますので。

既に夏バテの兆し。アーティスト、世間で評価されている他者への羨望が募ってきて、改めて、私の写真作品について、テーマを考えてみました。

Sakura

多分、今年撮影した私のフォトベストは、上の桜の写真です。この写真も含めて3枚、チョイスして、来年、ソニーのフォトコンテストに出そうと考えていますが、賞は貰えないでしょう。
特別、頑張っているわけではありませんが、人生、私はこれ以上の写真を撮れないでしょう。音楽もそうです。これ以上の作品を、生涯、私は作れそうにありません。そういう意味では、やり切った、後悔はありません。

私の心の中には、自覚していない何かがあり、ダークマターと名付けていた時期もあります。この何かが「虚無」だということに、数年前から気付きました。
自身の作品のテーマを考える為に、youtubeで虚無について検索をしましたが、そこで捉えられている虚無と、私の感じている虚無には隔たりがあって、私は虚無をネガティブな、克服しなければならない不幸だとは考えていません。
私の中の虚無とはニルヴァーナ(涅槃)で、存在が消滅する地点です。つまり、死でもあるわけですが、人間は死を、自身の消滅を克服することは出来ません。必ず死が訪れます。

私は鬱気質で、心的に辛い時があります。この辛さが虚無に繋がっている感もしています。私は今まで、継続的にクリエイトをしてきました。どうして継続的にクリエイトが出来たのか、心的な辛さがあったからだと思われます。
私には心的な辛さの波があり、居た堪れないのでクリエイトをしなければなりません。そして、私の写真や音楽には共通する世界観があり、この空間世界こそ虚無なのだろう、と。

世間での称賛を欲する、人生の成功者になりたい、勝ち組志向、時にそういう「欲しがり物語」が私にも芽生えて、苦しくなります。
私は世間的に成功者とは言われないでしょう。
しかし、そんなことで苦しんでも、どうしようもなりません。
無いものは無い。隣は青い。なので、やることは「灯台を見よ!」なのです。

灯台デモクラシー。

私の場合、健康です。鬱気質、花粉症、アトピーですが、どれも軽度で、病院に通う程ではありません。
継続的なクリエイトが出来ています。私は自身のクリエイトに悩まず、ほとんどスランプがありません。写真と音楽制作に関して、今までの自己ベストを更新し続けている、特に音楽は、10年ぐらい作り続けてきて、今がベストだと言い切れます。
自分の人生の半分以上続けている写真に関しても、まだ発見があります。例えば形について。これは、一昨年から模型制作を始めたことが大きかったです。分かりやすく言えば、絵画から彫刻へ、平面から立体へ理解が及んだ感じがしています。

ドラゴンと女騎士
Uボート

人がどうであろうとも、私は自身の作品達が好きですし、クリエイトが楽しいです。仕事ではなく趣味なので、自分の自由に作れるのが良いです。
変に売れたり、人気が出たりすると、気負ってしまって、楽しくなくなるかも知れません。人気がないなら、人気がないなりに楽しくクリエイトを続ければ良いのだな、と思います。

さて「虚無」とは何でしょう。

私は「人生とは虚無」だと直感しています。
人生に意味はない、私が生きる意味もなく、存在そのものに意味はないのではないか、と。

養老孟司さんの動画を見ていて、「机の上に石を置け」と言っていました。会社で偉い人は、自分のデスクの上に石を置いたら良い、すると部下が何の石なのか聞いてくるから、「ただの石」だと答えれば良い、と。
人的世界、特に、都会は意味がないモノが無く、どれも意味が付随しているのが問題だと養老孟司さんは指摘しています。

道端で落ちている石に意味は無い、とも言っていました。私達が生きているのに意味はあるのか、では、落ちている石達のそれぞれに、どうして今、こうして落ちているのか意味はあるのか、たまたまじゃないか、と。
同様に、私が生きているのもたまたまで、仕方がないことだ、と。
つまり、生きることは仕方がないことだと、養老孟司さんは言っています。

ここに、私の「虚無」のヒントがありそうな感じがしています。
つまり、存在から人間世界認識を外してしまえば、意味や価値を失う、全ては「ただの石ころ」同然になります。
本来の世界とは、このようなものだと、私は感じているのでしょう。

私は以前から、散歩のついでに拾ってきた石達を、机の上に置いています。美しいと感じているからです。
宝石でもない、道端で落ちていた石。私にとっては、最上のアートであり、御手本です。

そう言えば、私が制作したドラゴンと女騎士の写真を見て、友達が「顔が潰れている」と言っていました。
元々のプラモデルキットの造形もありますが、私の塗りもあって、潰れており、瞳がありません。昨日から山田五郎さんの美術系youtube動画を見始めて気付いたのですが、私の女騎士の目は、薄い水色で筆塗りしていて、モディリアーニなのです。
別にモディリアーニを意識していたわけではなく、山田五郎さんの動画を見ていて、思い出しました。モディリアーニの人物画に瞳は無いな、と。山田五郎さんの解説によると、モディリアーニが彫刻制作をしていた際に、アフリカ彫刻から影響を強く受けていて、元々、モディリアーニの絵画に瞳はあったのですが、彫刻制作を経て、瞳を描かない絵も描くようになったとか。
この感じ、分かるなー。

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