第二章 四つ目の面
私は少女に導かれるまま林に入った。鬱蒼と茂る木々が陽の光を遮るため、中は昼間でも薄暗い。草に覆われた頼りない獣道をしばらく進むと、やや開けた明るい場所に出た。そこには古ぼけた鳥居が建っていた。朱色の塗りはほぼ剥げ落ち、至る所に虫食いの穴があいている。いつ倒れてもおかしくはないだろう。さらにその奥にある祠は、長年の雨風に耐えかねたかのように屋根の一部が失われていた。かつては神社だったようだが、今は参拝どころか手入れをする者もいないのだろう。
少女は祠の右隣を指さした。そこには粗末ではあるものの、しっかりとした造りの小屋が建っていた。鳥居や祠とは異なり、建てられたのはそれほど昔ではなさそうだ。ただ、ここは気味が悪いほど人の気配が無い。恐らく親も兄弟も住んでいない。
私が使う術の一つに『人払い』というものがある。人々の深層意識に働きかけ、特定の場所から遠ざけるものだ。私はそのような術が施されている可能性を考えたが、あどけない少女の顔を見てそれを排除した。
少女は私の手を離すと何のためらいも無く小屋に近づき、引き戸を開けて中に入っていった。
(こんな所に一人で住んでいるのかしら)
不思議に思いながら、私も彼女の後を追って小屋に入った。中は日差しが届かず、暗くて奥まで見通すことが難しい。
その闇の中から、私は何者かの気配を感じた。そちらに視線を向けると、薄ぼんやりと人の顔のようなものが浮かんでいる。こちらの様子を探るかのように怪しく輝く目は、なんと四つもあった。その脇には、別の何かが鈍く銀色に輝いていた。
「誰っ!」
私は何者かが闇に潜み、こちらを狙っていると直感した。同時に右手の指で自分の白銀の首飾りに触れ、左手の指を複雑に組んだ。右手は重代の氷槍『霜華(しもばな)』を顕現させるため、左手は術で氷の礫(つぶて)を放ち相手を牽制するためである。
私が両手の指に気を流し込んでそれぞれを発動させる寸前、少女が私と『その者』との間に割って入ってきた。こちらを制止するように両腕を拡げ、首を左右に振っている。
『その者』を庇おうとする少女の動きを見て、私は構えを解き両手を下ろした。ただし万が一に備え、左手の指はいつでも術を放てるように組んだままである。
「どういうこと?」
私が理由を問うと、少女は入口とは別の引き戸を開けた。すると部屋の奥が陽の光に照らされた。
先ほどまで闇に包まれていた場所に人は居らず、ただ四つ目の面と矛が安置されていた。面はかつて朱塗りを施されていたようだが、古ぼけた鳥居と同様にほぼ剥げ落ちていた。しかし四つ目の奥の瞳だけは、心に刺さるような鮮やかさを保っている。矛は柄が腐って折れていたが、鋼の穂先は錆も無く鈍い銀色に輝いている。それらが闇の中で僅かな光を受けたため、そこに人が居ると誤認したらしい。
状況を把握した私は、左手の指も解いた。手のひらから雪の結晶がいくつかこぼれ落ちた。
「驚かせてごめんね」
私が詫びると少女はこくりと頷いた。そして四つ目の面に向かい恭しく跪くと、両手を合わせて目を閉じた。異形の面に祈りを捧げているのだろうか。
私は心に何か引っかかるものを感じ、深い記憶の海に意識を潜らせた。
「……方相氏?」
木屋平の湖に浮かぶ孤島に私が幽閉されていた八年の間、食事を運んで来る神社の巫女が書物も持ってくることがあった。重かっただのなんだの愚痴をたっぷり言われたが、それを指示したのは私を孤島に封じた張本人の宮司であったらしい。私は有り難くも何とも思わなかったが、外に出られない間の暇つぶしにそれらの書物を何度も読みあさった。
遙か神話の時代の物語に始まり、昔の公卿や女官が綴った日記や詩歌、武家が記録した史書など様々な書物があった。その中の数冊に、今の世では聞かれなくなった『方相氏』についての記述が存在した。
方相氏とは四つ目の面を被って矛を持つ異形の者達で、鬼や魔を祓う役目を負ったという。かつて朝廷では年に一度方相氏に悪鬼即滅の儀式を行わせ、その年の無事を祈念した。しかし武家が支配する世に移ると、そのような古式も徐々に廃れてしまった。今もなお方相氏のことを覚えている者など、京の都にも居ないだろう。
私が四つ目の面について物思いにふけっていると、いつの間にか少女は姿を消していた。代わりに小屋の奥から、がさごそと物音が聞こえてくる。そちらを覗き込むと、少女は甕に貯めていた水を杓子ですくって湯呑みに注いでいた。
「お水?」
私が見たままを口にすると、少女はその湯呑みを私の前に差し出した。
「頂けるの?」
そう尋ねると、彼女は僅かに微笑んだ。折角の気持ちである。私は差し出された湯呑みを受け取り、有り難く水を頂いた。先ほどの一件で渇いた喉が潤い、ほっと一息つくことが出来た。
ここは食料などを保管する土間のようで、様々なものが積んであった。数は多くないが俵や壺、樽、そして薪などが並び、天井から干し柿や干し魚などが吊してあった。長く保存できる食物を冬場に貯め込むのは別に不思議ではない。しかし、この十歳そこそこの少女がこれら全てを用意したとは思えなかった。特に俵など重いものは大人の手を借りなければ手に負えないはずだが、この小屋に共同生活の気配はない。
私が首をひねっていると、少女は薪と藁(わら)を抱えて竈(かまど)の前に座り、火打ち石を叩き始めた。藁に火種が移ると彼女は息を吹きかけて火を熾(おこ)し、手際よく竈の中に投じた。その上にさらに藁を積み、立て掛けてあった竹筒を口に当てて何度か吹くと、火が勢いよく燃えはじめた。彼女は火中に薪を投じてはさらに竹筒を吹き、火の勢いを強くしていった。
私は少女の慣れた手つきを感心しながら黙って見ていたが、ふと我に返った。このまま彼女に食事を作らせてしまっては、年上として恥ずかしい。
「私も手伝うわ。何でも言ってね」
その直後、私は彼女が喋れないのを思い出して慌てて口に手を当てた。詫びようとすると彼女は微笑みながら鍋を指差し、続けて先ほどの水甕を指差した。
「分かったわ。鍋にお湯を沸かすのね」
私は自分の袖をまくり、壁に掛けてあった縄で縛った。
こうして、私と少女の奇妙な共同生活が始まった。
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