サウナで学ぶ道徳の心 〜気持ち良いサウナは己を律することで得られる説〜
究極のサウナ術とは何か?
全人類が一度は考えるであろう「究極」にして「最善」のサウナの入り方…そう「究極のサウナ体験」を求め試行錯誤を繰り返しながら、今日も温浴施設へ足を運び熱を浴びる。
正に世は大サウナ時代。多くのサウナ愛好家達はサウナの神様が微笑んでくれるのを願いながら没入していく。
私もその1人。サウナの神様が微笑む瞬間を待ち望み、自身の内なる宇宙と向き合い、限界を超えた先にある光を求めて耐え忍ぶ日々を送っております。
実際サウナには多種多様な人が集い多様で異様な空間を作り出しています。
それぞれ目的も考え方も違うのでサウナ室では自身の思い通りにならない瞬間が多く訪れます。
私は思い通りにいかないサウナに苛立ちを覚えていました。雑念が私を掻き乱すのです。
一筋の光を求めるあまり、私は独りよがりになり、不愉快なモノに引きずられるあまり心の中に毒が積み重なり、サウナ後に訪れるのは醜い感情。
これではいけない…そう思った私はどんな時も「己にとって理想的で最善の入浴をしたい」という一心で模索を始めました。
そして、ある日のサウナで私はサウナの神様が微笑む瞬間に立ち合いました。
「あぁ…こんな簡単なことだったのか」
孤独へ没入し正しさに疑問を持て
サウナとは孤独の世界である。
サウナ室はコミュニケーションの場としてもその効果を発揮し、社交場としての役割もある(私もサウナ室で思わぬ出会いや地元の方と会話を楽しむ事はあります)が、結局行き着くところは「孤独」
サウナ室にいる時、例え周りが騒がしく感じても自分自身は孤独の世界にいる。サウナに没入する事で雑音は消え最終的に思考はゼロへと近く。
環境のせいにして「今日はダメだ」「クソ客め」と泣き言を漏らすようでは二流…いや三流以下…どのような環境でも適応する柔軟性。どんな時でも自身のペースへと持っていける引き出しの多さ。サウナは己との対話であり、他者に「ととのう」要因を作り出してはいけないものです。
「汗を落とさないで水風呂に入る」とか「サウナ室でタオルを絞る」とかは根絶して欲しいと願って止みませんが、私としてはそんな人たちが独りよがりにならずに、その人たち自身が己の過ちに「自らの意思」で気付けるように行動を起こすことの方が大切かなと思います。
とりあえず、自身のマインドセットとしてはサウナ環境に対してダメージを与える行為以外は「郷に従うスタイル」が良いかなと。
孤独への没入ができれば大抵の事は気にならないものですし、神経質になりすぎると気が滅入るのでオススメしません。
どうしても「最高の条件」を求めたい方は、理想の状態を求めて何度も通ってみるか、誰もいないサウナを探し求めるか、サウナテントを購入するか、プライベートサウナを作るなど他の方法を試してみるのも楽しいかと…!
善を行い悪を行わず、ただし周りに強要するべからず
いろんな人がいます。多様性ってのは良くもあり悪くもありますから、価値観の違いや熱量の差によって衝突は付きものです。追い出せば差別ですし、受け入れると今度はマイノリティ側として端へ追いやられる。
流行るとは良くも悪くも…なんです。時計は左回りにはなりません。過ぎた理想を求めるのは限界があります。そして人それぞれの楽しみ方があることも認めなければいけません。
サウナには最低限のマナーがあります。
私は最低限のマナーは絶対に守るべきと思っていますが、守らなければいけない理由として「多くの人に不快感を与えるだけでなく、サウナそのものの印象を悪くし、施設にとってもダメージを与えカルチャーそのものを崩壊させてしまう」が重要で、それだけは避けるべき事であると同時に人として守るべき道徳であると思うからです。
ただし、それらのマナーも行き過ぎた正義によって過激化していきます。過激化したマナーは正義の名の下に断罪され攻撃へと変容していくのが悲しいことに歴史が証明する事実です。
怒りを抱えていた私は自身の情けなさに落ち込みました。嫌っていたはずの人間に自分がなっていること…そしてそのヘイトは愛から生まれるという矛盾した真実。
大切なのは自身が絶対に行わない事。そして、その「正しい事をする」という輪を広げる事。
サウナにとって善い行いをする事は超大切ですし、その行いを広げるために発信し続けるのは大切です。ただ、攻撃するように悪を断罪するのだけはやめましょう。逆にサウナを息苦しく感じカルチャーの発展にダメージを与え、最終的にカルチャーそのものが崩壊してしまいます。
私はサウナ以外の別の趣味で行き過ぎた正義がカルチャーを滅ぼすところを見てきました。結果的に主張していた側が居場所を失っていきました。
まず自身は必ず守る事。そこに徹しましょう。と過去の苦い経験から気づけた事はまさにサウナの女神の微笑みでした。
影響を与え環境を変えるのは「怒り」ではない
影響を与えるのは怒りではなく、優しさです。
怒りで行動を改める人はいません。
例えば水風呂に汗を拭かずにダイブする方に対して注意をする時
「ふざけんなよ!!」と怒りで訴えても互いに不快な思いだけが残って嫌な気持ちだけが残り改善はされません。
私は新卒時代に物流業界で働く方に事故を起こさないように指導を行う仕事をしていました。私のような若造にプロフェッショナルな方々に危険につながる行動をやめてもらうように指摘されるのは嫌だったと思います。
私もそれを肌で感じていたため何とか改善したいと思い対策を考えました。それが外堀から埋め影響力を得る事です。
その人のこだわりや想いを理解し、話を伺い、興味関心を聞き相手に好かれる状態を作ってから指摘をする事で相手も素直に聞いてくれました。
サウナも同じです。
サウナでは同じ立場として対等の状態にいるからこそ自身は過ちを起こさず、かつ影響力を持つために外堀から埋めていく。例えばメリットを発信し続けたり、スマートな対応をとり続けたり、良いお客さんとして一目置かれたり…
怒りで終わらせるのはもったいないです!とサウナの女神に怒られたときに私は自身の甘さを痛感したのと同時に全員が心地よいサウナライフお行えるように自身の行いを改め優しくなろうと胸に誓いました。
まとめ:独りよがりは自分を滅ぼす
サウナの女神が微笑んでくれるのは独りよがりな自分に対してではありません。大切なのは道徳心を持ち、己を律する事で周りに影響を与え、どのような環境でも自身を崩さないでサウナと向き合える人です。
怒りを捨て優しさを胸に素敵なサウナライフを過ごしましょう。
ただしあまりにも酷い時には声を上げる事も大切です。ただし怒りに呑み込まれないで冷静に優しい心で…
さて、サウナに行きたくなってきたので私は今日もサウナと向き合ってきたいと思います。