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田島優介の自己紹介


田島優介とは・・・どんな人間か?


上記の資料からも分かる通り、私は非常にポジティブです。
そしていろいろな人や場所を繋げることが最も得意な人間です。

ちょっと変わった経歴の持ち主


私の経歴は以下の通りです。
大学卒業後 パソコンスクールを2年間運営
富士宮市立柚野中学校で3年間勤務
富士宮市立富士宮第二中学校で5年間勤務
コロンビアのボゴタ日本人学校で3年間勤務
富士宮市立富士宮第三中学校で1年間勤務
静岡大学教育学部附属静岡中学校 1年間勤務
富士宮市立西富士中学校 ←現在の位置

上記のような経歴から普通の先生とは違う感覚を持っています。
コロンビアから帰ってきてからの移動が多いですね〜。
多動なため、一つの場所にはいられなくなっている気がします・・・
でもそのおかげで、現在は多様な視点から物事を考えることができるので、楽しい人生を謳歌しています。

普通の学生時代からの変化

今では、そのような私も学生時代までの私はなんとなーく人生を歩んでいました。
勉強も運動も人並みにこなし、大好きなサッカーに明け暮れる小中学生を送っていました。
当時を思い出すとそれはそれで幸せな日常だったのかとも思っています。
高校になってからは大好きなサッカーの意欲も失い、とくに目的もないまま漠然と毎日の生活を送っていました。
大学進学に関しても先生に勧められたから教育学部を受験したというただそれだけの理由からです。
そのため、大学時代も毎日パチンコや麻雀に明け暮れているようなどこにでもいそうなぐーたらな大学生でした。
そんな大学生活を送っていましたが、大学3年生の時に友達に勧められて、パソコンスクールの運営を始めました。
当時はパソコンも全くできず、ゼロからのスタートとなりましたが、パソコンスクールの社長の生き方に憧れたり、仲間達と競い合うことの楽しさに没頭して初めて本気で取り組めることが見つかりました。
店舗も10店舗程度ありましたが、がむしゃらに働くことで、毎月の売り上げを上げも10店舗の中で、上位に持っていき、大学卒業時には、売り上げで1位を取ることもできました。
そしてそのままその会社に就職しました。就職してからも1年程度は毎月3位以内を保つ成績を収め続けました。
ただ1年も経つとその生活に対して違和感を持つようになりました。
このまま人生歩んでいけば間違いなく、成功するし、お金持ちになるはず。
そんな感覚をもっていましたが、何かが違うという違和感をこの時感じました。
ただ結局その違和感がわからないまま社会人2年目を過ごしました。
そこからは自分の心の中と戦いました。
心の声を聞くために、毎日海に行ったり、山にいったりと自然を欲する体になっていきました。
そこから哲学書や自己啓発本を読み漁り、違和感の答えを探しました。
しかし、同時は若かったため、違和感の答えは結局わからないままでした。
違和感の答えは見つかれなかったけど、次にやりたいステージの中に「教師」というものがはっきり見えてきたのもこの時期でした。
その理由は、高校、大学時代は何も目標のない自分に対して、社長やこの会社で一緒に働いた仲間たちと出会えて本気で取り組む楽しさを知ったことが大きかったと思います。
何事にも本気で取り組むという楽しさを今の若者たちにも伝えたいと思うようになり、教師になろうと決意しました。

教師になる

パソコンスクールを辞めたのが、2月後半。
そこからは教員採用試験の勉強。
7月に本試験があるので、5ヶ月間という時間がありました。
しかし、試験勉強は1日3時間以内に収め、後はひたすら遊んでいました。
地元の仲間達と実家のじいちゃんが建ててくれた倉庫をリニューアルして、ビリヤードダイヤダーツ、麻雀台、映画シアターを作ったりしました。
そんな生活を送っていたときに、大学の先生からの紹介で小学校の講師をやらないかというお誘いがありました。
もちろん快諾。
ということで、初めての教師生活は7月からの講師経験。
そこでの経験も毎日が新鮮でとても充実していました。
前職のパソコンスキルを活かして、先生方へパソコン教室を開いたり、得意のサッカースキルを活かして昼休みや放課後に子どもたちとサッカーをしたりしました。
そこで少し経験させていただいたこともあったことと、当時の理科教員になる人の数が少なかったため、教員採用試験にも無事に合格することができました。

初任校時代

初任校は、柚野中学校。
柚野中学校は全校生徒60名くらいの小さな学校です。
とても小さな学校だったため、学校全体がアットホームでした。
そのため、初任である私に対して皆さんがウェルカムで迎えてくれました。
本当にその気持ちが嬉しくて今でも僕の第二の故郷だと思っています。
ここでは本当に素敵な先生方との出会いました。
出会った先生方のおかげで僕の理想の教師像がうっすらと見えてきました。
また、部活動も小中学校大好きだったサッカー部の顧問を任せていただいたおかげで、部活人間になりました。
土日は部活動、平日も勤務終了時自分のサッカーの練習。
とひたすらにサッカーに関わる時期でした。
あまりにもサッカーばかりやっていたので、1年目にして中体連の部長を任せてもらえる話をいただき、2年目からは富士宮市の中体連の部長として仕事をさせてもらいました。また、トレセン活動も担当させてもらい、エスパルスのコーチと共に、子どもたちを育成させてもらう機会もいただきました。
その関係で富士宮の子どもたちを引き連れて韓国遠征にも行かせてもらいました。
振り返ってみると今は全く色が出ていないサッカーというフィールドで相当やってきたなと自負しております。
反対に当時はサッカーに対しての熱量が強すぎたため、理科の教師としての力が対してなかったのかと今になっては反省をしているところです。

プライベートも充実していた教員生活

サッカーで忙しかった日々が続きましたが、そんな中でも空いている時間や日にちを見つけて、たくさん遊んでいました。
また、同期たちにも恵まれたおかげで、同期たちとサッカーチームを組んだり、同期のメンバー中心に教育イベントを企画し、若者たち総勢50名くらい集めてBBQを実施したりしました。
とにかく当時から人を集めて何かやることが好きでした。
そして毎週イベントを組んでいました。
この生活スタイルは教員をやり続けてずっと変わらないです。
そのおかげで、教師生活8年間で一度も嫌になったことがありません。
毎日楽しすぎて毎日誰よりも早く学校に行っていました。
そして誰よりも早く帰って平日の夜も毎日楽しんでいました。
そんな日本での教員生活を8年間でした。

コロンビアへいくきっかけ

日本での教員生活をしている2年目の時に出会った教頭先生のおかげで海外に行くことを決意しました。
他の先生たちは働くことに対して一生懸命であったのに対してその教頭先生は働くことに対してワクワクしているのです。
こんな人はあまりいないということで話を聞かせてもらいました。
するとメキシコの日本人学校でそのマインドを学んだと教えてもらいました。
さらに3年以上経たないと海外へはいけないからとりあえず3年間は一生懸命働いた方が良いとアドバイスをいただきました。
そのいただいたアドバイス通り、一生懸命働きまくりました。
すると2校目に行った際には
3年担任。
情報主任。
総合学習主任。
生徒会担当。
進路指導主事。
おまけに富士宮市での総合学習の役員を担当させてもらいました。
これでもかってくらい仕事が振ってきた4年目でした。
同僚の先生方や生徒たちにも恵まれたおかげでなんとかやり切った1年でしたが、今思えば一番仕事が多かった年でした。
この経験のおかげで現在はどんな仕事も楽に感じますが・・・。
そんな経験を経て日本人学校を受験したらありがたいことに通過してコロンビアに行くことになりました。

人生を変えたコロンビア経験

コロンビアでは様々な経験をさせてもらいました。
日本人学校の先生方は、日本全国から来る、自分の信念を持たれた優秀な方達ばかりです。
そのため、まずは先輩たちの行動や実践をみて学ぼうと決めた1年目でした。
1年目で衝撃だったことが職員室での先生方同士の喧嘩。
自分の信念を持った方達なので、ぶつかることが多いのです。
その姿をみて僕はこの1年クッション役に徹しようと決意しました。
何をすれば学校が回るのか。
他の先輩の先生方はどんなことをしているのか。
ひたすら話を聞いたり、授業を見学させてもらうことをしました。
また、そこから見える隙間仕事を率先して行いました。
そんなことを半年くらい続けていくと、みなさんが僕のことを認めてくださるようになり、飲みに誘ってくれたり、個人的に話をしてくれることが多くなりました。
ここからより先生方が好きになり、学校が好きになってきました。
おかげで残りの半年間は喧嘩もなく、安心・安全な空間で仕事をすることができました。
そんな空間を作ったので、2年目からは仲間達とさらによい学校にしていこうとやる気に満ち溢れていました。
しかし、ここで現れたのが、コロナの世界。
4月からはコロナの関係で見通しが立たなくなりました。
幸い、コロナが始まる前から学校改革をしようと取り入れようとしていたZOOM。
事前に研究していたこともあり、4月からはZOOMを使ったオンライン授業をしていこうと決意しました。
また、残られた先生5名のうち、私を含めた3名はICT機器に関しては得意でしたので、すんなりシステムを構築することができました。
おかげで、日本ではまだまだ動いていないときに誰よりも早く動き出すことに成功しました。
情報も少ない中、これにしよう、あれにしようと模索して動いている瞬間は本当に刺激的で毎日が充実していました。
同時にプライベートでもこのタイミングで子どもが産まれ、家でオンラインで授業をしながら子育て、家事を1年間してきました。
今思えばこの時間は育休と同じだったのかなと。
そのおかげで家族との時間も十分に堪能できました。
ただコロナのため、外出できず、人と関わる機会が減りました。
でも時間だけは無限にある。
せっかくであればこの無限の時間を何か活用できないかと考えました。
その結果、思いついたのが、ZOOMを活用したソロミーティング。
日本時間20時。コロンビア時間6時。
ちょうど私にとっては子どもが起きていない時間でしたので、ゆったりと時間を作ることができました。
Facebookで面白そうな人を発見しては声をかけ、対話を申し込む。
大体一人の人と1時間程度対話をしました。
そんな活動をコロナが開けた後も続けていました。
おそらく500人近い方とソロ対話してきました。

その様子を取り上げてくれた記事はこちら


そんな経験をしたおかげで、世界中にたくさんの仲間ができました。
また、私たちが実践してきたノウハウを届けることもしてきました。
そしてそのまま仲間たちと一緒に「世界中の先生をつなげよう」というグループを立ち上げました。
そのグループも軌道にのり、現在では1000人以上の仲間たちがいます。
その仲間たちとは何かあるたびに助けてもらうことができる素敵な仲間です。

その仲間たちと定期的に対話会を実施することで、自然と学校間交流につながっていきました。
道徳の授業に入ってもらったり、学校間で交流したりとオンラインならではの活動を続けました。
コロンビアでの実践をまとめたものは以下の動画から閲覧できます。

帰国後の日本の学校で感じたこと

帰国後驚いたことはとにかく学校へ行かない生徒が多いことです。
1割程度の生徒が学校へ来ていないのです。
なぜそうなるのか現場で捉えた感覚は価値観の押し付けです。
自分の価値観が正しいと主張し合い、お互いの意見を潰そうとしている。
これでは、残念ながら学校へ来たくなくなるのではと思いました。
僕のクラスでも最初はお互いの意見を潰そうとしている生徒ばかりでした。
そのため、僕は1年間意識したことはどんな人も認めるです。
学校の中で誰か一人でもそんなスタイルでいくとどうなるかと検証した結果、手応えはありました。
結果は以下のグラフのようなクラスになりました。

最後の質問項目の個性を発揮することができるクラスであるように本当に個性的なクラスになりました。
そのため、先生によっては授業がやりにくそうでした。
個性的な子どもたちが多い中での授業って実は相当ハードルが高いです。
子どもたちとの信頼関係がないと子どもたちはのってこないので、いかに信頼関係を築くかが勝負なところがありました。
反対に信頼関係さえあれば授業は成立します。
そもそも私の場合は授業という概念が他の先生方と違っており、こちらから教えるということを捨てていました。
そのやり方を共有すると長くなりそうですので、詳しく聞きたい方は直接聞いてください。


静岡大学教育学部附属静岡中学校に勤務

まさかの1年間での転勤に私を含めて周囲の人たちは驚いていました。
ただこれも運命。
附属中学に呼ばれたのだと思います。
附属中は私の教育観ととてもマッチしています。
先生たちも生徒も価値観の押し付けが一切ない。
ありのままを認めてくれる学校。
自分の理想の学校はここにあると感じています。
そんな中私が実践したことをラジオで取り上げていただいたので、お時間ある方は聞いてみてください。

附属中は真善美・自主独立を校訓に掲げています。
その校訓を教師も子どもも考えながら行動していっています。だから附属の文化は根付き続けるのだと思います。

富士宮市立西富士中学校で勤務
いろいろ実践してきたことをもう一度じっくりゆっくり実践する時がきたのかと思っています。
西富士中学校は全校生徒60名程度の小さい学校。
この学校に配属されたことも運命。
感謝しながら自分のできることを全力でやり遂げます。
2024年度も非常に楽しみな年になりそうです。

最後に・・・

私のバイブルとなる本を紹介します。


この本を読んでからより天命追求型の生き方になってきました。

天命追求型の生き方とは・・・
まずは今、居る場所で、今、やるべきことに素直に向き合い、全身全霊を尽くして心を込めて丁寧に生きて行く。 それを誰かが必ず見ているから、ご縁のある人たちを通じて自分にふさわしいステージに引き立てられ応援されて大切な役割が全うできるというもの。
上記のような考え方です。

今に焦点を当てて生きることの大切さ。
明日は来るかはわからない。
いつ死んでも良いように今をとにかく生きる。
やりたいこと、悔いがないように生きる。
だからこそ
「今を全力で自分のために生きることにしています」
そんな人生を送っている田島優介でした。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
出会いの全てはご縁とタイミング。
自分にできることがありましたら全力でやらせてもらいます。




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