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灰色の男たち

「モモ」という児童書をご存知だろうか。ドイツの児童書作家、ミヒャエル・エンデの作品である。

わたしの1つ前の記事のタイトルであるモモは、わたしが小学2年生になって初めて自分で最後まで読み切った本だった。当時のわたしには、はてしなく長く感じるその本を読むのは本当に憂鬱だった。けれども1度読み始めてしまえば、本に没頭してしまい、その本の世界にはいっていく夢までみていた。毎回毎回憂鬱をかんじながらも、本がボロボロになるまで読んだ、大好きな本であった。

先日、小学4年生の時に手放してしまったその本を、地元の本屋で買った。当時持っていたのはハードカバーだったけれど、お財布に優しく、というモットーの元文庫本バージョンを買った。

「1日1章寝る前に読む」。この本を買った時に決めたルールは買ったその日に破られた。あっという間に読み終わったその本は、とても易しくて短い話であった。

「モモ」というのは主人公の女の子の名前で、彼女は円形劇場の跡地に1人で住み着いている孤児であるが、近くに住む友人とともに経済的には貧しいながらもあたたかくのんびりとした暮らしをしていた。彼女には不思議な力があって、子供たちは彼女に話しかけているだけで素晴らしい遊びを思いついたし、大人たちは忘れかけていた大切なものを思い出した。そう、彼女は「話を聞くこと」が不思議なほど上手かったのである。

しかしそんなのんびりとした街に、じわりじわりと灰色の影が忍び寄っていた。灰色の影とは、このnoteのタイトル「灰色の男たち」に他ならない。彼らは時間貯蓄銀行の行員を名乗る、葉巻をくわえた不気味な紳士であったが、その正体は「ほんとうはいないはずのもの」であり、人間の時間を盗んで存在しているのであった。彼らがくわえている葉巻は、人間から盗んだ時間であり、彼らはそれで命を繋いでいた。時間を盗まれた人間は、「時間を節約し、効率ばかりを重視して」ひとかどの人間になるために生きるようになる。そして、灰色の男たちはモモの街の住人からも時間を奪っていった。

モモは灰色の男たちと戦い(という表現はしっくりこないが他に良い表現がみつけられないのをこの本を読んだ方ならば理解してくださるだろう)、無事に人間の時間を取り戻してこの本は終わる。

内容についての感想は、陳腐なものしか出てこないのでここで書くのは控えようと思う。しかしわたしはこの本を読んでいてひとつ気づいたことがあった。それは、「読み方の劣化」である。

少し話が逸れるが、わたしは今受験生(正確に言うならば浪人生)である。志望校は私立文系、日本の大学入試で最も国語が難しい、と言われる大学である。その大学に受かるべく、わたしは文章を「速く、論理的に、正確に」読み取る訓練をしている。つまり、私情を入れない、ディスコースマーカーに注目して文の論理関係を注意深く読み取っていく、訓練をしているのである。当然であるが論説はもちろん、小説文でも「頭にイメージを描きながら」読むことなどしない。ただただ書いてあることのみを読み取るのだ。去年からこの訓練を必死でやっていたおかげで、だいぶこの読み方が身についてきて、国語は点数が安定するようになってきている。

しかし、モモをよんでいると、風景やその場所の匂い、人々の話し声や都会の喧騒、灰色の男たちが醸し出す冷気までハッキリと懐かしいイメージが浮かんでくるのだ。こんな体験は久しぶりで、何故だろうと思いながらも最後までとても楽しく読み切った。読んでいる間は、いつもは嫌でも目に付く逆説表現や比較表現などが一切気にならなかった。大学入試本番でこの読み方をしたら確実に私は落ちるだろう。

おそらくだが、小学生のわたしは本を読む時「頭にイメージを描きながら」読んでいたのだろう。そして何度も何度も繰り返して読むうちにそのイメージは固定化され、それによってこの本を読み返した19歳のわたしはそのイメージに懐かしさを覚えたのだろう。

こういうことを考えているうちに、大学入試のために身につけた読み方は、灰色の男たちに時間を奪われた人間の生き方にそっくりだと気づいた。「速く、論理的に、正確に」読むということは、「時間を節約し、効率ばかりを重視して」生きることと全く同じなのである。

つまり、わたしにとっての「灰色の男たち」とは、大学入試だったのである。おそらくだが、18世紀イギリスにとっての「灰色の男たち」は産業革命であったし、電車で隣に座っているサラリーマンにとっての「灰色の男たち」は仕事かもしれない。(余談だがサラリーマンの格好は灰色の男たちにそっくりである)

ただ、大学入試も産業革命も仕事も、悪いことだけをもたらすものではない。将来性を、力を、豊かさを与えるものでもある。

「モモ」にでてくる灰色の男たちもそうなのではないだろうか。彼らは人間の時間を奪ったが、人間達は時間を奪われて精神的に貧しくなっている間、経済的には確実に豊かになっている。そしてモモが時間を取り返したことで、精神においても経済においても豊かな生活を手に入れたと言えるのではないだろうか。

作者ミヒャエル・エンデのあとがきにもあるのだが、「モモ」とは現在の話にも過去の話にも、そして未来の話にもなりうるのだ。確かに、わたしやサラリーマンの大学入試や仕事は現在の話だし、イギリスの産業革命は過去の話である。つまりこれからくる未来にも、「灰色の男たち」は存在するのである。

ただし、「灰色の男たち」が去った後には、必ず豊かさが残る。豊かさの前には「灰色の男たち」が現れると言ってもいい。わたしは何度でも灰色の男たちを倒して、未来を豊かにしていこうと思う。とりあえず今は、顔を洗って参考書を開くことにする。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。「モモ」はおそらく、100人いたら100通りの解釈ができる作品だと思います。まだ読んだことのない方は、本当に素晴らしい作品なので是非読んでみてください。





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