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【33】性役割を本気でなくそうとしたキブツの顛末(1)

 前回まではやや抽象的な話が続いたが、今回は男性性や女性性(も含めた人間性)が、いかに消し去りがたいものであるかを示す具体例をとりあげたい。
 一般に「男女平等」とか「ジェンダー平等」というのは20世紀の後半から広まり始めた比較的新しい考え方だと思われている。しかし、実は20世紀の前半、これを真剣にやろうとした集団があった。イスラエルの農業共同体「キブツ」である。

 私がこれを知ったのは、この連載でよく参照しているスティーブン・ピンカー著『人間の本性を考える』を読んでいたときである。ジェンダーをテーマにした第18章の中にこんな記述があったのだ。(性別による)「労働の分担は、全員がそれを根絶するために努力した、イスラエルのキブツにおいてさえ発生した」〈注1〉。

 といっても、この本ではそれ以上の詳しい情報は得られなかったのだが、その後色々な本を読んでいると時々キブツについて書かれた箇所に出くわすことがあり、かなり研究されている集団のようだ。日本語で読める書籍でキブツ自体をメインに扱ったものはほとんどないようなので〈注2〉、あちこちの本やネットから集めた断片的な情報をもとに書いていこう。

 キブツ(ヘブライ語で「集団」の意)は、自給自足、労働の分担、資産の共有、平等主義といった理念のもとに創設された農業共同体で、その歴史は国家としてのイスラエル(1948年建国)よりも古い。というより、むしろキブツが、ユダヤ人のパレスチナ地方への入植やその後の防衛活動の面でイスラエルの建国に大きな役割を果たしたらしい。
 最初のキブツは1909年、東欧から移住してきたユダヤ人の一群によってガリラヤ湖の沿岸に作られた。以降建国までに100ヵ所以上のキブツが設立されたという。現在もイスラエルには200~300ヵ所ほどのキブツがあり、100人程度の集団もあれば1000人を超える集団もあるそうだ(後述するが、現在のキブツは初期の頃とはだいぶ性格の違うコミュニティになっている)。

 上記の理念からもわかるように、キブツは社会主義に強く影響を受けた試みであり、構成員間の完全な平等と個人所有の否定が徹底された。どれくらい徹底されていたかというと、雇用労働が行われず(つまり働いても給料が出ない)、衣食住など生活に必要なものは全て無料で提供されていたというほどだ。
 「キブツの創設者たちは、外部環境を変えることで人間の行動や本性を根本からつくり直せると信じていた」〈注3〉という。伝統や慣習に縛られない理想の共同体を作る、という情熱に燃えていたのだろう。

 さて、キブツは富の不平等だけでなく、男女間の不平等も徹底的に解消しようと試みた。女性にも男性と同様に労働の機会や政治参加の機会を開き、性別による分業も廃止しようとした。これもまた本当に徹底していて、女性を家事育児から解放するために集団保育制を導入したのである。これは、親が仕事に出ている間だけ子供を預けられる(保育園のような)施設を作った、というレベルのものではない。親子の同居自体をやめてしまったのだ。

初期キブツの最も人目を引く目標は、集団育児を中心とする急進的で奇抜な家庭生活の構築だった。親が共同住宅の狭い部屋で暮らす一方、子供たちはだいたい六人から二十人のほぼ同年齢の仲間たちと小さな家で食事をし、眠り、入浴した。子供たちが血のつながった親と過ごすのは、毎日午後の一、二時間だけだった。(中略)キブツ運動にこうした特徴があった理由の一つは、東欧のユダヤ文化で支配的だった家父長的体制を変えたいという願望にあった。集団育児の目的は、女性を家庭生活の重荷から解放し、男性と同じ社会経済的土俵に乗せる一方で、男性にもっと育児の役割を担わせることだった。初期キブツにおける女性のイメージで強調されていたのは、男性との平等、厳しい肉体労働、慎み深さ、そして、恋愛の軽視だった。〈注4〉

 キブツでは、母親が世話する代わりに子は集団で保育され、しつけも行われた。子どもたちは年齢別に分けられた家で生活し、女を家事の義務から解放するために、共同の台所や洗濯室や食堂が作られた。男も女も好きな職業を自由に選び、政治の分野でも男女が対等に参加するよう求められていた。〈注5〉

※ 厳密に言うと、子供が両親とは別の住居で生活するようになったのはキブツの最初期からではなく1918年以降のことである。集団保育自体はそれ以前から行われていたが、この頃に移住してきたユダヤ人たちはより急進的な社会主義の影響を受けており、新たに創設されたキブツでは親子が完全に離れて暮らすようになった〈注6〉〈注7〉。


 ところが、そこまでしたのに性別による分業の廃止には全く成功しなかった。

 けれども、キブツが始まった当初から主要なポストは男たちに占められた。キブツ連合のそれぞれの執行部には女は最低でも三分の一を占めるよう割り当てられていたが、それに達しているものは滅多になかった。女はその役目をなかなか買って出ようとしなかったのである。そのイデオロギーにも拘らず、労働が男女に振り分けられるということも、その他の性による役割分担も、長いことなくならなかった。
 初期の段階では、男と女の仕事内容は同じようなものだったが、1950年代までには、キブツで最も地位が高い職業である農業に従事するのは男であり、女は看護婦か教師として働いていた。洗濯と炊事はやはり女が行っており、そういうものはサーヴィス部門の仕事だった。祖母たちは男女間の違いをなるべくなくそうとしたのに、孫娘たちときたらファッションやアクセサリーに新しい興味を見つけ、夢中になってしまったのだ。〈注5〉

 キブツ創設期こそ多くの女性が(伝統的に男性の仕事であった)農業や道路の舗装、沼の干拓作業などに従事したが、集団の規模が大きくなるにつれてサービス部門の仕事が拡大していき、次第にほとんどの女性がそちらで働くようになっていったという。

 特に1940年代の後半から50年代の前半にかけて男女の分業が明確化し、結局一般の社会と同様、農業従事者の圧倒的多数は男性になってしまった。8ヵ所のキブツを対象にした調査によると、女性就労者のうち農業に従事する人の割合は、1948年には11.1%だったが、1955年には6.3%にまで減っている〈注8〉。
 
 またキブツでは時代が下るにつれて農業だけでなく工業も行われるようになっていったが、こちらも一般の社会と同様、主に男性の仕事として定着していった。

 さらに面白いことに、サービス部門の従事者は女性の方が多いのにも関わらず、その中でのマネージメント業務(管理職)となると男性の従事者が圧倒的に多くなり、この辺も外部の社会とほとんど変わらない状態に落ち着いてしまった。1948年には女性就労者のうち2%、男性就労者のうち7.1%がマネージャーであったが、1955年にはその割合が3.3%対11.6%となっている〈注8〉。
〔次回に続く〕



〈1〉スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える(下)』山下篤子訳、NHKブックス、2004、p.126
 
〈2〉この記事の公開後に見つけたのだが、数少ない日本語で読める書籍として

・アミア・リブリッヒ『キブツ  その素顔 大地に帰ったユダヤ人の記録』樋口範子訳、ミルトス、1993(原著は1980年刊行)
・ライオネル・タイガー、ジャック・シェーファー『女性と社会運動 キブツの女たち』荒木哲子訳、思索社、1981(原著は1975年刊行)

がある。どちらも(特に後者は)なかなかレアな書籍であるが、なんとか入手して目を通すことができた。前者は1978年に数十人のキブツ民に行ったインタビューを記録したもので、詳細な生活史や創設者たちの大変な苦労を知ることができる。キブツの人々に親しみが沸く感動的な本である。
 後者はキブツで女性の役割や意識がどう変遷してきたかを初めて本格的に調査した研究書であり、むしろ最初に読むべき本であった。この2冊から得た情報をもとに、今回と第34回には公開後に若干の修正を加えている。

〈3〉ニコラス・クリスタキス『ブループリント —「よい未来」を築くための進化論と人類史—』鬼澤忍・塩原通緒訳、ニューズピックス、2020、p.109-110
〈4〉前掲『ブループリント』p.110
〈5〉キングズレー・ブラウン『女より男の給料が高いわけ』竹内久美子訳、新潮社、2003、p.71-72
〈6〉前掲『女性と社会運動』p.195-196、332
〈7〉鈴木真一『キブツにおける家族主義の動向』大妻女子大学文学部紀要、1984、p.7

〈8〉前掲『キブツにおける家族主義の動向』p.8


参考文献等
・前掲『ブループリント』
・前掲『女より男の給料が高いわけ』
・前掲『キブツにおける家族主義の動向』
・コトバンク『キブツ』
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%84-51488
・Wikipedia『キブツ』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%84
・駐日イスラエル大使館『キブツについて』
https://embassies.gov.il/tokyo/AboutIsrael/People/Pages/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%84%20%E3%83%BC%20%E7%94%9F%E6%B4%BB%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93.aspx

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