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道徳の詰め込み教育 一九三〇年代の事例 文明と文化と野蛮について 二

ギリシャ・ローマの文化は人類に普遍であると言われ、「全ての道はローマに通ず」という格言も存在している。だが、実体よりも幻想、政治よりも宗教を愛するゲルマン民族はそこを通行することが出来ず、社会から疎外された老人のようにローマ的な普遍性の外に居たのかも知れない。もっとも、彼等は単なる老人というよりも、尋常ならざる有害性を発揮する老害と評するべきであり、ヒトラーが述べたように「ゲルマン民族は特別」であることは疑いようがない事実だ。ヨーロッパの歴史から独り逸脱する独逸の有様をして、歴史家のフリッツ・フィッシャーが、「ドイツ特有の道」と呼んでいたことを追記しておこう。

自分を特別だと思いたがることは愚かなことであるが、斯様な形で特別になることは殊更に惨めなことだ。ルネサンス期の哲学者達は社会の異物であったことは事実であるが、ナチス親衛隊のような人類史の汚物とは完全に対極であった。ラテン的感性とノルド的勇気は同じようなものであるかも知れないが、ゲルマン的鈍感は負の方向に特別な怯懦でしかない。前者二つは人間の英雄性であって、後者が人間の偉大性を全く有しない観念的ニヒリズムであることは説明不要のことだろう。

全てのものごとが悪くなるという陰鬱な妄想は、現在のドイツでも愛される悲観主義であって、英語圏ではこれをGerman Angstと呼ぶこともある。唯心論的不安に囚われる彼等には、実体構造がまるで認知出来ず、ただ保身に取り憑かれるのが必然だ。ネガティヴしか持たない彼等彼女等は、「自分には何も出来ない」と「権威には絶対に勝てない」という観念を刷り込むこと以外を何も教えないことが、教育であると考えている。感情がない割には妄想にだけは熱心で、安全よりも気休めを求め、生産性よりも我慢と自己満足と御涙頂戴が好むようでは、創造性を発揮することは不可能だ。人間として大切なことは、不安に従うことではなく、積極的に実体を視切ることだろう。不安とは観察と思考抜きの動物的本能であるが、勇気とは「観察と思考と行動」を繋げる人間的本性を示すものであって、つまりは知性を意味する言葉なのだ。

軟弱で卑屈な思い込み、ドイツ的な観念的な悪夢の類は、森の邪霊とでも言うべきだろうが、この臆病なヴァーチャリズムはキリスト教の人生は原罪に対する罰であるという教義に適う。人生は苦しみに耐えるためのものであるというキリスト教の価値観は、創造価値を否定するだけの奴隷的マゾヒズムと観念的ニヒリズムへの信仰でしかなく、これは勇気を放棄させ、知性を軽蔑させるだけの倒錯である。「笑う門には福来る」とは言ったものだが、「悪いことしか起こらない」という観念によって社会を破壊し続ける信仰は、ジョークとしても笑えない。

苦しむこと以外が罪であって、遊ぶことがとりわけに重罪とされ、快楽は悪魔の誘惑であると妄信し、苦痛と徒労を崇め奉り、合理性を逆恨みする。斯様な実体を否定するネガティヴが、Angstに基づく観念が、結果を創ろうとしない「自由からの逃走」が、下らない屁理屈を大量に生み出し、それが集積されたものが勤労カルヴィニズムという奴隷労働宗教なのだろう。観察を否定する臆病と功利性を非難する諦観の組み合わせこそが、「服従こそが自由である」という倒錯したナチスの世界観に繋がったというわけだ。何も求めない悲観主義を動機にしても、リスク回避の保身以外を何をも為せるはずもなく、つまりは権威主義が蔓延する全体主義社会が生まれる。

彼等にとって労働とは、必要性に基づいたものではなくて、権威に許しを請うための宗教的な儀式であり、他者を苦しみに耐えさせることを目的とした懲罰の一種であった。実体を視なければ全てを恐れることしか出来ないが、実体を視ないことを信仰する彼等は、今日も全てを恐れることを妄信している。

働くことと苦しむことを信仰する彼等は、実体に先行させる否定の観念を正しい結論と妄信し、愚かさと惨めさを真面目さとして尊ぶことを辞めはしない。自己否定だけに生活を費やし、全ての実体を負の色眼鏡を通してしか観察しえないならば、その人生は陰気なる逃避と抑圧の無間地獄であって、生きることの否定そのものだろう。

勇気とは、構造を観察する意思であり、判断を行わんとする激情であって、これこそが「間合い感」という空間的警戒心の源であって、「認知と制御と出力」を回す原動力でもある。動物的快楽欲求によって人間的探究精神を失うのならば認知的霊力を破綻させるだけであるが、我が身を守るだけで理念を守る意思がない者は高貴であるとは言えるはずもない。ドイツロマン主義という実体を無視して理念を拒絶する妄念は、勇気の焔を拒絶する臆病であって、啓蒙の光を灯すことも、正義の鋼を鍛造することも、権威の支配を破壊することも、一切全て否定する。権威の提示した正解を暗記するだけの奴隷には自らで世界を観察する意思がなく、科学技術とは貴族の精神から生まれるものだ。奴隷意思論と運命予定説を崇めるゲルマン民族は、森の邪霊に取り憑かれ、今日もAngstに苛まれ続けている。人間の統治能力を否定して全てを権威に任せることを強制する彼等彼女等は、文明を創る火の力から最も遠い存在だろう。

実体と意識を噛み合わせることもなく、観念的な正解を探す彼等の野蛮な風習は、現実逃避の一種であって、近代理念の放棄に過ぎない。失敗を認めず、責任転嫁と恣意的な暴力に走り、八つ当たりと逆恨みを繰り返す、不公平を信仰する彼等の生き方はこれしか存在しない。公平性が無ければ、つまり、正義が欠如しているのならば、観念で全てを捻じ曲げ続けるだけであって、何をも観察することが出来ないのだ。

その結果として、イギリスが近代科学技術を創発して実体を動かし、フランスがワインと芸術を創り出して実体を楽しむ間に、指示待ちのドイツは観念的な答えだけを求めて実体から逃避していた。この格差は、文明と文化と宗教の差であると同時に、文明と文化と野蛮の差であると言えよう。実体に基づいた議論を否定して権威への同化を強制する宗教は、本質的な意味で野蛮それそのものだ。

ヴォルテールは、神聖ローマ帝国というドイツの祖先について、「神聖でもなく、ローマ的でもなければ、帝国ですらなかった」という言葉を残している。だが、「宗教的であっても、ローマ的でなく、帝国ですらなかった」のが神聖ローマの実体であって、それはつまり、「文明的でもなく、文化的でもなければ、野蛮でしかなかった」ということだろう。一方で、ドイツ帝国はその名に反してまるでドイツ的ではなかったが、ローマ的な帝国であったことは事実だ。

更に言うのであれば、帝国というものは多民族国家であることが基本的な前提なのだから、ゲルマン民族しか許容し得ない第三帝国は、「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、ましてや帝国ですらなかった」という言葉がげに相応しい。自らを騙していることを自覚出来ないという認知不全症こそが、神聖ローマ帝国であり、第三帝国であって、ゲルマン民族の歴史であった。

そうであるが故に、ゲルマン民族のアルミニウスがトイトブルクの森の戦いで衰退期のローマに勝ったところで、その後に国家を創ることなどは全く出来なかった。戦術レベルで優れていようとも、合理性を持たずに判断能力が欠如していたドイツロマン主義者としては、小説家のエルンスト・ユンガーが有名だが、実は彼は「アルミニウス」という雑誌を発刊したことも有る。

システムの力を持たない斯様な野蛮人達とは異なって、過去の日本人は元寇や黒船のような外圧に対して国家権力を築き上げて戦う英雄であった、という歴史的事実は覚えておくべきだ。勇気と合理性の「機能的な繋がり」によって、知恵というものが生まれる。文明国家を創って公共社会に責を負うことこそが、高貴さというものだろう。公平性を持たない者は、人間を束ね率いて国家を創り上げることは出来ず、他者と理念を守る力がないならば、社会を守護することは不可能だ。観念的な権威主義によって民族主義的な群れを造れども、それが国家と成り得るわけはない。自由なる統治を否定するゲルマン民族が権威による不自由な支配を望んでいても、「やまとこころ」を持った日本人はそれを焼き尽くすだけだ。

自我を抑圧するエゴイストという倒錯的な存在である彼等は、功利主義のイギリス人と賢いユダヤ人に嫉妬して、八つ当たりすることくらいしかまるで出来ない。支配のための支配、序列のための序列、不自由のための不自由、信仰のための信仰、バーバリアンコンプレックスとでも呼ぶべき知的好奇心を排除するゲルマン的不寛容では、嫉妬から神学を生み出すことを繰り返すしかない。

そういえば、儒教では中華皇帝への中央集権と権威への絶対服従の上意下達を唱えているが、ナチスも指導者原理として総統への集権と絶対服従を道徳であると唱えていた。ナチズムとは精神的にはローマ的な感性から遠く、その一方で地理的に遠く離れた中華の儒教的な精神と瓜二つであったのだ。これらは共に体制に対して個人の末端化を強制する全体主義であって、権威の下への同化・癒着を強制して人間の「我の消滅」を起こす。こうして麻薬依存症ならぬ権威依存症の人間が増え続けるが、「意識弱い系」の彼等は自らの目的意識を持たずに権威の代理人として道徳的に振舞う。権威の独裁という世界観を人間のマインドに刷り込み、それによって全体主義社会というシステムを構築するのが、この二つに共通する性質である。

さて、このようにアジア的であったヒトラーは、「我が闘争」の中でアジア人のことを創造行為が出来ない文化追従種と扱っていた。だが、美大に落ちる程に創造力が乏しい彼は、マスゲームの重視なども含めてアジアで千年以上前に存在した統治手法をコピーしていただけでしかない。実体を示すことではなくて幻想的な肯定感だけを訴える手法は儒教的なおべっかであるとも言えるが、アジア的専制を好んだヒトラーの選挙演説とは、欺瞞的なアジア的優しさそのものであった。

ナチスは異常に事細かい命令を好んでいたが、これこそが指導者原理というナチスの教義を具体的な生活に反映させるための戒律である。ナチスの命令は命令を実行することによって生まれる効果を狙ったものではなく、支配下の人間に権威の命令の絶対順守という道徳を刷り込むためのものでしかなかった。効果に疑問が持たれるような不合理な命令も多発していたが、理不尽を強制することにこそナチスは異常な拘りを持っていた。

言うまでもなく儒教にもこれと同様の構造が存在していて、「二十四孝批判」で福沢諭吉はこのことを徹底的に批判していた。人間の思考能力を殺すために非合理を強制し、子供を従順にさせるために非効率な徒労に従わせることを行う。儒教とは子どもへの怨念であるか、若しくは子供を親の奴隷にすることへの信仰に過ぎない。

奴隷達が一切において逆らわず、権威以外を拒絶し続けることを確かめるために、恣意的な指図を守らせることが不寛容な戒律の目的であることは言うまでもなかろう。権威が支配下の奴隷に対して、管理されることを刷り込むためだけに、無駄の順守を強制するのだ。権威が押し付けた不要な義務を破棄せずにただ順守することが善であって、その善を疑うことが無いことが道徳である。権威に従わない者と集団と異なる者を徹底的に弾圧し、規律も社会契約も否定して、戒律と権威主義支配を妄信することが道徳の本質なのだ。

この「従属への完璧主義」の帰結として、ナチスの指揮系統には無思考故の無駄が多く発生し、彼等は戦争という有形力の嵐の中で生き延びることが到底に不可能であった。事実を拒絶して選挙に勝てたとしても、その姿勢では戦争に勝つことは絶対に無理だろう。全てをコントロールしようという徒労を好む神官は、実は結果のコントロールを得手としていない。愚かさによって勝利を目指したところで、民主制がない所ではそれは通用するはずがないのだ。愚民の機嫌を取ることにしかエネルギーを向けないヒトラーには、実体結果を動かすことは到底に不可能であった。

戦争とは、変化を拒絶するゲルマン民族が好むような、完全に規格化された奴隷的作業の能力によって遂行されるものではなく、自己優越化を求めるだけの決闘とも徹底的に異なっていて、結果を求めないロマン主義者の彼等が嫌うような目的意識とシステム思考をどこまでも要求する。ナチズムによって硬直した精神では、形式的な攻撃しか不可能になるだろうし、畜生の群れの抗争では見栄張りのための威嚇が役に立ったとしても、人間の戦争ではそれが使えるはずもない。自己満足の犬死を虚飾して正当化出来たとしても、それによって結果が動くことは絶対に有り得ない。そもそも、社会理念の喪失に対して何も戦わず、「自由からの逃走」を起こしてナチスを支持した畜生道が、戦場において能く戦える由があるわけもない。己以外に無関心であるが故に、己しか守ることしか出来ない者が、強くあれるはずもないのだ。

ナチスの下を痛めつけるための暴力は、どこまでもガサツで粗雑な精神に裏打ちされたものであったが、愚民を従わせるための騙しと脅しとしては効率的に機能した。だが、その力は敵を殺すための人間的な力からは最も遠く、「知は力なり」を体現した近代兵器を駆使する戦争においては全く以て無力でしかなかった。強弱二元論を妄信し、噛み合いのない非合理な勢いに走って自滅することこそが、ゲルマン民族の本性である。粗野で鈍感な石頭は砥石として優れていても、その絶縁性故に知性の電を通すことには向いていない。攻撃を避けない形式の決闘が得意であっても、槍の理合いの理解、つまりは自由意思に基づいた自由な動きを知ることとは、完全に別物だろう。

奴隷意思論に基づいた奴隷的動きを繰り返すゲルマン民族には、意思決定というものがまるで存在していない。敵の意思決定と機能と構造の繋がりを破壊することはあらゆる戦いにおける勝ち筋であるが、権威主義とは意思決定そのものを破壊する兵器なのだ。固定された正解の暗記によって物事をこなそうとする形式主義では、人間的探究心がどこまでも弱まるだけだろう。意思決定出来るということが、己の意思の存在証明であるが、「我決められる、故に我あり」とでも言えばいい。

ゲルマン民族は「個の意識」というものを、つまりは自由意思とシステムを使いこなすための霊力をどこまでも恐れている。正義を知覚する力と権威に反逆する力が極限まで弱い彼等彼女等は、英雄性を持っていないということでしかないが、それ故に彼等彼女等は分断状態に停滞することしか出来ない。だからこそ、彼等彼女等は個人利益主義と権威主義によって纏まることを試みて、全体主義社会という究極の不正義を形成するのだ。

権威というものは人間の罪悪感を沸き起こし、何をするかも考えさせず、権威に謝罪することを強制して、思考停止して従うように拘束する。だが、誰がなんと言おうとも、己で何をするのかを己で決定することについて考えることを選択しなければ、それは自らであることを放棄しているに過ぎない。自由とは、権威に洗脳支配されない能力と国家を的確に統治する能力を意味する言霊である。己で広く視ることが出来なければ、己で流動的に動くことなど到底に不可能であるが、認知と予測と攻撃の間の「機能的な繋がり」が意思であって、己の動きを外部構造に噛み合わせる流動的な速さがアーツであり、能動的な狙いと空間的な防御能力を発揮出来ないならば、戦争という総合芸術で勝利を得ることは無理だろう。

ナチス親衛隊の戦果には、ヒトラーに偏愛されて良い装備を優先配備されていたという政治的な要因が存在していて、国防軍にそれらが支給されていれば全体の戦局はもう少しはマシになった可能性がある。品性をまるで持たない名ばかりの親衛隊員は、人間的探究精神を持たずに動物的快楽欲求を満たすことしか求めておらず、「観察と思考と行動」の「機能的な繋がり」を放棄した彼等が勝利に到達出来るわけがない。

トーマス・マンは「ファウストゥス博士」で、ルネサンスとルターの宗教改革の差異を述べ、ドイツ人の未熟さの顕れとして観念性を指摘し、暴力的なドイツ騎士道を批判していた。だが、彼等は「未」熟であるのではなく、大人に成り得ないオタクであると考えるべきであって、騎士道を騙るだけの野蛮人は騎士からも武士からも最も遠い存在である。

一九四一年には、ウクライナのサッカーチームがナチスのチームに勝った際に、ナチス親衛隊が勝者を収容所送りにして殺したという事件があった。ソ連にもドイツにも屈しないウクライナ人達は、サッカーのみならず戦闘をも得手としている。実体公平性の否定を信仰するナチス親衛隊は、どこまでも醜い存在でしかないが、ヒトラーにも負けず、スターリンにも負けず、チェルノブイリの爆発にも負けず、ドローンとジャベリンを使いこなし、権威に追従する事大主義を抹殺して、自らによって政治を考えて国家を進歩させる、そういうウクライナ人に私はなりたい。ベラルーシ人の圧政と戦争への抵抗であっても、その知恵と勇気は驚嘆に値するものだ。

たとえ敵であっても勇敢で賢い者は助命して登用しなければならないという人類の普遍的な価値観を放棄して、民族主義といった下らない宗教に走ることは、向上や進化といった前進の意思を放棄することそのものだ。「昨日の敵は今日の友」という格言は、「万人の万人に対する闘争」のゲルマン民族の間では存在していないに違いない。

ナチスがどんな宣伝を行おうとも、包囲戦術を得意としたズールー王国のシャカ王の方が、ゲルマン民族の総統よりもシステム思考を遥かに得意としている。人間の精神を破壊することを崇める彼等には、人間が創り出す技術権力を使いこなすことは不可能であって、戦争において勝利を得ることなど絶対に不可能である。反乱を起こす暴徒の数が増えたところで、文明的な思考が無いならば、それが軍事行動に昇華されることは有り得ない。そもそも、高貴さを持たない彼等には理念を共にすることが出来るわけもなく、ナチスとは本質的に団結とは無縁な存在であって、勝利を得られるはずがないのだ。

蒙昧な力と観念的な屁理屈の合体はナチスが最も好むものであるが、戦争において必要なのは、有形力と論理的思考の「機能的な繋がり」である。こうしたナチスの体制では将官であろうとも十全な戦術的判断能力を発揮したものは少なく、ヒトラーに阿ること以外に能がないものが多かったことは今更言うまでもない。「寛容は弱さの証」とは、弱い将官もヒトラーに媚びを売れば許されるということを示す格言である。

フリードリヒ大王は、小学校では暗記だけではなく判断能力を身に着けさせる教育が必要であると訴えたが、「階級とは命令違反を適切に行う能力に応じて与えられるべきである」と述べていた。だが、ヒトラーは「服従することを自明に思うことが優秀であるということだ」という思考停止の強制を唱えていた。人間の意思が無用であると考えるゲルマン民族は、動物としては我々よりもさぞかし優秀なことであろう。

自らによって実体を観察して判断する科学技術的な精神が大王の教育理念であり、単にやらされるだけの勉強がヒトラーの信仰であった。経典を読むだけのスコラ学ではなくて、自らによって構造を観察するイギリス経験論によって科学技術が発展した意味を、我々は絶対に理解しておかなければならない。観察抜きの演繹的思考から生まれるのは、中世暗黒時代への追認だけである。正当性よりも機能や効果が意識されることによって、近代という時代が生まれたのだ。

政府を監視するという民主主義の基本は、実体への観察意識と一致するものであることは言うに及ばないことだ。監視の否定とは、性善説的な観念に過ぎないものだが、こうした他者への信仰は「我の喪失」であり、実体観察の否定そのものであって、個々人が権力を扱うという「力への意志」を完全に棄損するものでしかない。監視こそが犯罪を抑圧する最大の圧力であり、あらゆる戦いにおいて最初に必要となる手段であるが、これを忘れた者は、個々人の小規模な犯罪どころか政府の大規模な犯罪を助長している。権威主義者や賊徒との平等は、社会を破綻に追いやるだけのものなのだ。我々は、権威の言い掛かりを意識するのではなくて、実体を視ることを体得しなければならない。

大王にとっては、「命令を理解する能力」が優秀の基準であったが、ヒトラーには「命令に従順」であることが優秀という意味であった。プロイセンの啓蒙とドイツの迷妄は、人種がどうあろうとも完全に別物であろう。フリードリヒ大王の社会契約が文明であってヒトラーの権威主義が野蛮であるということは、文明的な日本人には簡単にわかる。普遍的理念と独善的妄念の究極的な差異が、ここに端的に示されているのだ。


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