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近代理念と宗教道徳 社会契約と親孝行 道徳の東西 下

近代理念と宗教道徳 社会契約と親孝行 道徳の東西 
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について                
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて


現代の政党政治家には国家の政治や経済を背負う意識などまるでなく、政策に無知でも政権に執着する彼等彼女等は、法を無視してでも政争に熱心である。事実に興味を持つことよりも、権威に媚びを売り、衆人の歓心を買うことを意識する方が、選挙においては簡単に勝利に近づく道だろう。

道徳的心性が蔓延する限りにおいては、選挙という民主的な制度は、奴隷主を求める信者達による人気投票に成り下がることは必然であって、ヒトラーは「大衆は自ら達の支配者を求めている」と述べていた。だが、「ロマン主義者達は騙されることを求めている」と言う方が適切であって、ゲルマン民族からすれば権威に自らを含む全てを支配させることが伝統的な道徳であった。彼等彼女等は、自分たちが不自由であると言うことに気付くことすら出来ないのだ。

国家威信を破壊するような失言でも売名することは可能であって、マニュフェストを軽視するソフィスト達は、ビスマルクの社会主義政策よりもヒトラーの民族主義的な煽動を参考にしている。肥大化妄想に裏打ちされた嘘によって有権者を騙す技術を政治に用いることは、ピラミッドを崇めるだけの神官の所業だ。「権威主義・平和主義・ロマン主義」という破滅のトライアングルは、国家公共における理想主義と民主主義を滅ぼすことしか出来ない。問題解決を否定した上で権威を肯定するものは、それは政治ではなくて宗教であると言えるだろう。

己で何も言わず何もせず、迎合するためだけに生きている畜生道は、保身と虚飾以外をまるで求めていないが、往々にして彼等は平和主義者と呼ばれている。平和主義者は権威に屈服することを好むのだから、彼等を屈服させる賊徒を、自由を重んじる哲学者よりも好んでいる。ヴァーチャリストの平和主義者が最も好むものを三つ上げれば、キレイゴト、見て見ぬ振り、非権威に対する我慢の強制であることは説明不要だろう。彼等彼女等は非公正で腐敗したものに従うために存在する、ゾンビのようなものであると言っていい。

人間から勇気と知性がなくなれば、社会が平和になるのではなくて、社会から言論の自由が消えて全体主義に陥るだけでしかない。他者と理念と公共を守る高貴なる機能が欠如した平和主義者達は、全体主義をどこまでも愛していて、言論の自由や勇気や知性といった理念を徹底的なまでに逆恨みしている。平和主義者にとっての平和とは、人間から自由を取り上げることを示す言葉であって、それは無力無抵抗を意味するものであり、権威主義そのものであると言える。宗教的マゾヒズムとロマン主義的ニヒリズムを信仰する彼等彼女等にとって、社会や理念を守ることは不愉快で苦痛で仕方がないのだが、理不尽に耐えることは倒錯的で偽善的な快楽であるのだろう。

彼等の述べる良心とは、臆病と無知性を意味する言葉であることは言うまでもなく、「権威の奴隷にならなければ死ぬ」という騙しと脅しこそがキリスト教の本質である。抑圧を好む極左全体主義者達は、平和主義と権威主義と現実否認の組み合わせのキリスト教と、大体同じことを述べているのは大変に興味深い現象だ。これは、現実実体に戻づいた兼愛功利を考えることよりも、自らとイデオロギー以外を穢れとして捉え、他者を否定することに取り憑かれているが故にだろう。

儒教が蔓延すれば、「全てのものには序列あり」といった教義の「観念の拡大再生産」が起こり、自らで何も考えず世界の実体を何も認識せず、ただ権威の下に集い、そして群れて踊り、気を大きくする群集心理に基づいた社会しか成立し得ない。魯迅は「阿Q正伝」で事実に関心が払われず、権威と多数への迎合が重んじられ、見栄なりメンツなり表層を取り繕うことのみを求める衆愚の精神を徹底的に糾弾している。この精神は上なり大なり権威なりに阿ることを信仰する事大主義と呼ばれるものであるが、儒教や勤労カルヴィニズムではこれこそが理想とされる奴隷意思だ。

そうした事大主義の社会においては、一切のエネルギーは序列をつけることにだけ費やされ、会議というのも揚げ足取りの論破合戦か、はたまた責任の押し付け合い以上になることはない。あらゆることにおける判断基準は身分の上下だけになるのだから、誰もが現実に対して興味を失い、互いのメンツの序列を競い合うだけでなんら団結は起こり得ない。

こうした儒教や勤労カルヴィニズムとは異なってカトリックは平等と博愛については一定に備えている可能性はあって、権威主義的であっても儒教や勤労カルヴィニズム程は毒性を持ってはいない。儒教と勤労カルヴィニズムは例外的に奴隷制を肯定する教義を持つが、基本的に大体の宗教は、奴隷制を否定する性質を持っている。博愛を唱えているカトリックでは、労働者を保護する運動も一定に存在していた。儒教や勤労カルヴィニズムとは異なって、カトリックの価値観については全否定するべきではないだろう。

そして、付け加えておくが「自由・不平等・偏愛」という社会は存在し得ない。何故ならば、そのような公共判断に反するものは自由であるとはいえないからだ。そうした状態であっても自由が存在しているならば、法的な不平等や人種差別の偏愛は遠からぬうちに修正されることになる。それが修正されないというのであらば、単に自由が存在していないということだ。

現代のアメリカがなぜ人種差別をやめられないかというのも、勤労カルヴィニズムが原因である。アメリカが非白人国家の日本との契約を破ったとしても、それは宗教的には善とされる行為でしかない。アフガニスタン人にもクルド人にもアメリカは安全な生活を提供しておらず、彼等は賊徒のように不要かつ理不尽に他者を攻撃することしか考えていない。アメリカは世界に民主主義を広めることなどまるで出来ていないのだから、日本の民主主義はアメリカがもたらしたものではない。アメリカは、民主主義を創ることにも守ることにも関心が無く、ドイツ宗教への敬虔な信仰を深めることだけにしか興味を持っていないのだ。

アメリカはおそらく、上海・香港・台湾といった南中華における政治戦に負ければ、中華に対する全面的な敗北を迎えるということにも気づいていないに違いない。アメリカと同様に人種差別を好み、アメリカ以上に約束を守ることが出来ないのが中華であるという世界の現実を、アメリカはまるで認知出来ていないのだ。

現在のアメリカとは異なっていたイギリスは、シーパワーが単に軍艦を並べるだけの能力ではなく、同盟戦略による情報共有と知的リソースの相互作用にその本質があるということを理解していた。同盟戦略を重んじたモンゴル帝国やプロイセン王国も、政策面に関してはイギリスと共通した部分が存在する。他者を仲良くすることには得が多いという事実を理解出来ない愚かさが、ゲルマン民族の狭量なランドパワーなのだろうかと考えてしまうのは、世界史に詳しい人間にはよくあることかも知れない。

彼等にとって政治とは、主体的な思考ではなく、権威に従うことしか意味していないだろう。だが、民主主義においては、他人の意見を聞くことだけではなくて、実体を視て公平性と功利性に基づいて判断することを、それ以上に重んじる必要がある。他者を信用するだけで構造を己で観察しないことが騙されるということであって、それは民主制権威主義を成立させるだけなのだ。そして不思議なことに、他者を絶対に信用しないような者は、存外に権威への絶対の信用を抱えていることがしばしばある。

道徳とは権威に騙され続けることへの信仰に過ぎず、人間個々人の人生においては他人に言われたように動くことや権威に従うことよりも、自らが為すべきことと自らが決めたことを行わなければならない。親が決めた全てのことを行うのではなくて、自らの意思で制御を刺すことこそが、戦いに必要な意識なのだ。

アメリカや中華、そしてナチスとは「不自由・不平等・偏愛」という宗教教義をイデオロギーにして構築しただけの社会である。このイデオロギーにおいては差別をなくすことを目指しているというよりも、自らが権威となって他者を差別と搾取の対象にすることこそが道徳とされている。この思想は、最終的に権威が周りの全てを奴隷にしなければ気が済まないといった性格の妄想でしかない。自己と権威だけが絶対的に正しいという妄念しか彼等は持っておらず、そうした妄念によって他者の意思と身体を破壊し、奴隷化することにしか興味がない。

権威主義と選民思想においては、権威に選ばれた選民たる自集団と異なる他者を絶対に認めないという帰結以外は導き出されるわけがない。宗教権威が唱える戒律、教義と道徳のみが偏愛すべき唯一の正解として、国家における公共権力や法律、近代理念と人間の自由をこの世から抹殺せんとしている。彼等が考えていることは、権威は絶対に正しい、ただそれだけである。斯様な選民思想による差別は、実力主義による区別とは完全に異なったものだ。

一方で、大日本帝国はアジア主義的な儒教思想を内包していても、政教分離と天皇の下の平等を備えており、それはアメリカやナチスというプロテスタント型の構造とは異なった体制であった。実は、大英帝国においても経済格差を解消しようという運動があって、「不自由・不平等・偏愛」が完全に成立しているというわけでもなかった。イギリスの植民地主義とアメリカの白人至上主義を同一視することには無理があって、戦前の帝国主義の日本は少なくとも後者に反対していたことは一定には事実だ。

世界史において、ローマなどの強力な軍隊を持つ国は国民への福祉政策や一定の政治的権利の平等が確保される場合が多く、世界史においては徴兵と参政権は常に一体であった。このことは、権威主義に基づいた身分制度が前提であれば、強い軍隊を保有することは不可能であるということを示している。福祉政策とは単なる慈善業ではなく、歴史的には国力を増大化させる機能を目的として行われてきたものであったのだ。

人類史においては、国家主義と民主主義とは単なるキレイゴトの観念論ではなく、この組み合わせは生存のための機能美である。そしてそれは、民族主義と権威主義の組み合わせであるナチズムとは徹底的に対極的なものであった。

日本においても、徳川幕府の幕末の軍隊は、草莽崛起の奇兵隊に対して惨敗したことは記憶に新しい。日清・日露の両戦争であっても、国民国家を志向した日本は、専制権威主義の大国を打ち破った。十六世紀のスウェーデンの身分制解体は国民軍の成立を目指したものであったし、十七世紀からのプロイセン王国の徴兵制も国民国家の基盤となった。

プロイセンにおいては、徴兵制によって国民が国家に統合されたと言われているが、プロイセンは、合計十倍以上の人口を持つフランス・オーストリア・ロシアの連合国との戦争に勝ち抜くことに成功する。そして、そうした国民軍が完成したのはナポレオン時代のフランス大陸軍であった。プロイセンの辞書には中世という文字が無く、フランスの辞書には不可能という文字が無いのかも知れないが、ドイツの辞書には国家という近代的リアリズムがないことは、現状のEUの惨状を見ても確かなことであると言えよう。そして、アメリカの辞書に存在する項目は、「私有・暴動・迫害」という三つであって、これはどんな馬鹿にでも簡単にわかるという点において傑出したものだ。

公平性の破壊とは、集団を束ね率いる源の否定である。公平性を求める意思が公共心であって、国家を創る力の欠如から生まれるものが「万人の万人に対する闘争」の競争社会であり、斯様な分断の正当化がアメリカンドリームである。公共性を持たない者が個人利益競争に有利であるのは事実であるが、公共性を持たない者は国家そのものを破壊してしまう。公共性を持つことによって個人利益を積み増すシステムと、公共性を持たないことによってペナルティを与えるシステムを造り、監視と記録を徹底する必要があった。だが、現代においては、それが機能していないのだから、囚人のジレンマ未満の問題だろう。

競争社会においては、己が社会に貢献することではなくて、他者の才能を恨むことだけが横行する。競争においては妨害によって他者を失敗させ、他者を身代わりに使って保身することが、最も効率の良い手段である。己の利益以外を何も考えられず、他者を守る力を持たない分断された個々人には、協働を基にして社会を成立させることが不可能だ。差別の問題もいじめと同じような問題であって、保身や個人利益の追求のために特定の者を不当に扱うことが常態化し、そして常識化し、道徳化してしまったのだろう。銭ゲバの彼等はカルトの教祖を求めても、リーダーの資質をまるで持っておらず、敵を作り上げることでしか団結することが出来ない。自らが正当であると信じて疑わない彼等は、判断を的確に行わんとする意思をまるで持っておらず、彼等の集団が公平性に基づいた社会に勝つことは出来るはずもない。だからこそ、彼等は世界の全ての社会を解体し、全ての人間を分断された個人に還元する必要があるわけだ。

道徳と呼ばれているものは、権威の支配のために存在するツールであって、実体社会を向上させるための公共判断とは完全に対極的なものだ。儒教の選民思想と勤労カルヴィニズムの運命予定説は同じようなものだが、これらの偏愛は、公平性を否定する属人的な評価基準であり、不正義そのものであって、依怙贔屓による否定と肯定でしかない。普遍理念によって信任を得る民主主義ではなく、権威主義によって隷属させることであって、信賞必罰の崩壊と権威による独裁が道徳によって起こる結末なのだ。

権威主義によって公平性を潰す社会的不正義は、社会を停滞させるか、「万人の万人に対する闘争」しか生みださない。何故、戒律や教義が存在するか? 戒律や教義が順守された結果としてどのような実体結果が生まれるか? この前後関係を考えないことこそが道徳と呼ばれているものの正体である。

硬直した形式主義が戒律であって、実体を無視するネガティブな先入観が教義であり、そして権威への奴隷的服従、つまりは人間の自由意思の放棄こそが道徳と呼ばれていたのが人類の歴史であった。宗教権威が唱える道徳とは、保身と隷属と差別を尊び、実体を恨み、他者を僻み、権威を崇めるだけの畜生道でしかないのだ。

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