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誰も読まない記事は意味があるのか?

「いくら『いいね』が増えても、リツイートが増えなきゃ拡散はしねえんだよ。どうしてなんだよお。あんなに力込めて書いたのにさ」

知り合いのライターが、ぼそりとこうつぶやいた。

他にも、こんなことをいくつかしゃべっていたように思う。

「個人的にはすごく良い記事だと思うんだ」「長いから読まれないのかな」「努力して書いたから読んでほしいのにさ」「結構ニッチな話かもしれないけど読んだらきっと好きになってくれるはず」「いいねも少しだけだしリツイートは誰もしてくれない!」「どうしてだろうどうしてだろう?」

・・・

気持ちを込めて書いたものが全然読まれないという話は、いろんなところで聞くし、自分も何度も経験がある。

わかってはいるのだ。自分の努力は、他人にとってはまったく関係がないのだと。誰も君のことは見ていないのだ、と。

人は、ほとんど「見ていない」。これだけの人がいて、あなたのことに関して注目してます!なんて言う人は、いるわけがない。誰もあなたに期待してない、誰もあなたを見ていない。冷たい言葉だと思うなかれ、これが真実だと僕は思う。ただ、それを受け入れて素直に生きた人の方が、純度の高い魅力的な人だと僕は思う。

誰も君のことなんか見ていない。

「記事を読んでくれない」と嘆く前に、「他人の記事なんか読むはずがないんだ」という前提があることを受け入れにくい。

ただ、その「見るはずのないコンテンツ」「読まれることのないコンテンツ」は、果たして存在する意味があるのだろうか —— 。

・・・

前に書いたこのnote(↓)で、塩谷さんがこんなふうに言っていた。

「バズらなくてもいいから読むべき人に届けばいい、というのもメディア側の怠慢。読むべき人にも届かないのではダメなんだ」

「良い記事だと思う」では、もうダメなんじゃないかと思う。「深く刺さる」というのも読者側の意見なら正しいけど、書き手側が発するべきではないんじゃないかと思う。広く読まれるものでなければ、ダメなんじゃないか。

今の自分は、誰も読まないコンテンツは意味がない、と思っている。そうじゃないと、いつまでたっても“井の中の蛙”を抜けられない気がするからだ。

これまで自分が書いてきたものも、そういう観点で見直せば「意味がない」と判断されてしまうようなコンテンツばかりつくってきたと思う。でも、そういう事実は受け入れないと何もはじまらない。

(だから今は、自分のPCのメモアプリに、Googleアナリティクスのスクショを貼り付けている。忘れないように)

・・・

最初に参照したnoteには、最後にこう書かれている。

特に若い人は、もっと自由に動き回ればいいと僕は思いますよ。ものすごく素敵なことをしていたら、きっと誰かが見てくれています。それまでは自由に思ったことで勝負していくといいですよ。失敗の数だけ上手に踊れます。

もっと自由に動き回ればいい

まずは自分がたのしそうにしないといけないなぁと思う。最近張り詰めすぎた。もっと気を緩めないと。

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