読書記録005「可愛いかがわしいお前だけが僕のことをわかってくれる(のだろうか)」鹿路けりま
――冴えない浪人生の主人公夢野巡のもとに悪魔ドロルフィニスが現れる、
この物語のテーマはなにか。
”魂の救済”。それである。
何事においても絶望し、なんどでも自殺しようとする主人公には、ドロルフィニスの導きで、それまでできなかったことが叶えられる。恋愛、金持ち、才能。ドラマの前半は、ラノベにふさわしいバトルが予想される下地にあてられる。好きな女性との恋愛模様、異能力を扱う敵、絶対的な兄貴。前半の盛り上がりとしては、バトルが勃発し、ドロルフィニスは痛手を負いながらも、好きな女性を守り通すシーンがある。これからも主人公は異能バトルに巻き込まれていくのだろうか、という予感が読者に与えられる。
だが、中盤から物語の筋が変わる。それまでの伏線が回収されるのが、異能バトルとしての大筋ではなく、主人公の魂の救済への足掛かりとして回収されていく。予定調和のストーリーが、ガラガラと価値のないものとして崩壊する。崩壊していく。心のように。主人公の心のように。派手な音を響かせながら……。第三章「不滅と成功」の終盤において、その文章は加速し、ラノベ的文章でありながら、ぴんと張り詰めたピアノ線のうえをわたるようだ。孤独な、弱まった魂の悲痛な魂が叫びが聞こえる。死への欲動に突き動かされた結果、それまでのドラマは主人公による「自分への試し行為」として回収されてしまうのである。
自己を実験にさらすということは両義的で、外界からの刺激によって自分のなかに眠るなにかが触発され、予想だにしていなかった”未知なるもの”へ自分が変わっていく、そんな出来事をもたらす一方で、それまでの自己イメージに塗り固められたいびつな自画像に直面させられることにもなる。
悪魔との甘美な契約は、自分に起こるすべてをパロディにしてしまう契約でもあった。できないことへの/不可能なことへの無力感から、できることへの/パロディ化への無力感へ。どちらも現実に直面することから逸れてしまっているために、現実に対する無力感に落ち込んでしまうのは道理なのかもしれない。しかし、そもそも「現実に直面する」ことは果たして可能なことなのだろうか?なにをもって現実とし、なにをして立派に生きるなどと言えるのだろうか?
ひとは漸近的にしか現実と向き合えない。
そのうえで主人公のとる決断は、決定的な他者としての属性をもつ「悪魔」とあくまで「人間的」な、関係を取り結ぶことだった。パロディや予定調和に毒されながら、そのなかで死への引力に逆らいながら、夢野巡はドロルフィニスと生きていくことを決意するのだ。パロディであり、他者であり、ひとつの有機的生命体である、悪魔を受け入れるのである。本当の意味での共同生活が幕をあけつつあるところで、物語は終わる。
続編があるのかはわからない。けれど人生は続いていく。今日という日のつづきは明日であり、明日のつづきが明後日であるように。そこには不毛であるという印象も付きまとう。あるいは、実験としてのなにが起こるか分からない、という不安と歓喜のないまぜのぐるぐるした気分も。それと同じように、どうなるかは分からないけれど、夢野巡の日々も宿命も受け入れようと思えてくる。その気持ちを補強するためにも、次巻を心待ちにしようではないか。
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