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やわらか視線論/完全にもうやめた

前回に引き続き、おしまいさんと笹沼鹿さんのユニット「完全にもうやめた」の歌集をゲットしたので、感想を書こうかなと思います。まず表紙が美しい。ビルの影になった歩道橋に、淡いイラストの女の人が立っている。写真の上から絵の具を落としたような色が重ね合わさり、柔らかな景色を幻出させている。目を引いた歌をすこしピックアップして見ていこうと思います。

喧嘩見るひとびとすこしいちねんせい世界を憎むことも忘れて

「シティスケープ」おしまい

目の前の喧嘩に目を奪われて、日常の感情部分を置き去りにした様子を「すこしいちねんせい」と喩える手腕に拍手。私たちはおそらくどこか抜けていて、真面目に傷つきながら生きていても、時々「すこしいちねんせい」をやってしまうのだ。

栓を抜けば湯はどうどうと遠ざかる正午だけが正午だったように

「沐浴」笹沼 鹿

「どうどうと」というのが面白い。馬が走ってるみたいだ。馬が走ってるみたいにお湯が抜けていく。確かにあの勢いは「どうどうと」だ。そう聞くとそれ以外の言いようがないとさえ思えてくる。そう考えると「正午」というのも不思議な語で、午前でも午後でもない「正午」は十二時ぴったりを差し、差したと思うと過ぎている。絶対につかめない、取り返せない。栓を抜いてしまうのにはさまざまな理由や思惑があるだろう。しかし栓を抜いてしまえばそれっきりなのだ。It has gone. 馬は行ってしまって、どう首を回そうともその姿はもう見えない。

デイ・バイ・デイ死にたくないなお茶碗に昨日のお米座らせておく

「ヒト・ト・シテ」おしまい

暗い歌である。が、そこに「デイ・バイ・デイ」が奇妙な明るさというかポップさ、軽さを持ち込んでおり、それが下の句の「昨日のお米」を「座らせておく」というリアリティに結びついていく、そうすると自然に受け入れてしまうというか、あるよなこういう日、死にたくないよな、と感じてしまう。死にたいなと思う瞬間って、なんかいつも(デイ・バイ・デイ)死にたいって思ってるな自分などと思ったりして、なんかずーんと沈んだりするものだが、後から振り返るとそういうタイミングがあるだけで意外と「たまに」死にたくなる瞬間があり、それが堆積して「いつも」と感じるものだったりする。暗い歌ではあるものの、だれしも身に覚えのあろう歌である。

こんなにも禁煙世界でもゲート前では素直、素直なけむり

「飛行機で博多まで」おしまい

30年前では猫も杓子も喫んでいた煙草、それが生権力により排除、迫害されているのはご覧の通りだ。ただ、なにしろ火は素直だし、けむりは素直なのである。複雑でややこしいのはいつだって人間の方である。政治や権力構造のなかであたふたしてる人間、時代精神のおかげで病んだり発狂したりする人間、それを見て「火」や「けむり」はどう思うだろうか。「大変だなあ」とすら思わない。ただその素直さに甘んじたいとき、人間は煙草を吸うのである。

遠くから大胆に腕先端の指も忘れず動いていそう

「やわらか視線論」笹沼 鹿

視点の妙味の効いた面白い短歌である。「大胆」な腕と、それを冷静に見ている観察者のギャップがくすぐりになっている。おそらく近寄ることはないだろう。そして「大胆」な腕の使い手は必ず「指」も動かすものであり、そこに覚えている/忘れるのカテゴリーはない。だから「指も忘れず」というのは、その人にはなく、観察者にしかない感覚というか概念である。さげとしては「動いていそう」ではあるが、遠くなのでわからない、というさして興味もないというところである。ある種の「どうでもよさ」がその動作のおかしみを支えている。


もっとたくさん好きな歌があるのだけれど、この辺りにしてみたいと思います。読んでいると、暮らしを歌にしていくことの楽しさと面白さ、それが悲しみや絶望をテーマとする時でも、その豊かさを感じてなんていうか気持ちよく感じました。次作も巡り合ったら手に取りたいな、そう思います。

完全にもうやめた
おしまい(いるかフラッシュ) twitter: @youhavethelight
笹沼 鹿            twitter: @6_Sasanuma

通販購入はこちらからできるみたいです。興味ある方はぜひ!

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