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なつとカミサマ

暑い。
でも夏じゃなかった。
夏というのはもっと、汗で張り付いた前髪や、夜のねっとりとした空気や、そこに内省を試みるような。

上がりすぎた体温に冷えピタを張り付ける。
自分の中身が全部、粘り気のある何かに変容した感じがする。
クーラーボックスからポカリを引き上げて、逆さまに喉に流し込む。
考える暇もなく、でも確かに時間の流れを感じながら、傷み、悲しんできた気がする。

もう戻らない時みたいなの、楽しかった記憶を辿って、またもう一度を信じた幼い日にかえる。そして「もう一度」はないのだと学んだ。
毎日、知らなくていい感情に出会う。迷子のまま、放棄するようにテーブルの上に並んだ仕事だけを見つめた。
いつの間にか8月が終わる。
4月にはじめてのフィッティングをして、5月にクランクインをした撮影は、いよいよ明日、あと一日を残すだけとなった。

事務所の片付けをしながら、次の撮影のことを考える。そろそろ冬物が必要になってくる。
そうしてふと、冬の撮影を思い出す。
何度も逃げ出しそうになりながら、大泣きして、家族や友人に電話をしながら乗り越えた冬。
あの冬がもう迫っていて、なんだかんだわたしはもう、9ヶ月もここにいたのだな、と思う。

あの頃書いた、ショートケーキの甘さを振り返る。
この頃はもう何も食べたくないと思っていた。
ヨーグルトと、ゼリーと、一欠片のタンパク質で生きていた。
もう何も食べたくなかった。

食べることは生きることだと誰かが言っていた。そうか、だからわたしは食事が苦手なんだ。
少食や偏食は治らずに、どんどん極まっている。
胃と脳が違うことを求める。重たくて身体が泣いている。

今だって何度も逃げ出そうとして、精神的に、あるいは肉体的に参ってしまって、自分の人生が侵食されていく感じに危機感を覚えたりする。

9ヶ月前、事務所を辞めて、治験バイトで暮らそうと思ってた。文字通り身体を売って、そうしたら恒常的な希死念慮も薄れるんじゃないかと思った。何より、能動的に働かなくてもお金はもらえるし、大丈夫な範囲で文章にしたら面白いだろうな、と思った。
それで、ゾッとする。
多分自殺してただろうな、と思う。
神様が放棄した世界で、約束の冬を待たず7月の終わりに、わたしは死んだと思う。

今ここに生きてること、を考える。
幸福じゃなくても、生きてしまっていることを認めることにする。
失ったものにも向き合えずに明日はやってきて、毎日いくつもの仕事のことを考え、気がつくと時間だけが通り過ぎて、ああ、死に損なった、なんて思う。
意味や意義を考え、それが満たされないと歪んでいく。だから自分の身体を実験体にして、何もせずに天井を見つめていたら多分、わたしは生きられなかった。
死にたいと思う隙もなく、今日が辛く慌ただしい日々でよかった。
感傷に浸る間も無く、引きずられていてよかった。
よかったかな、それはまた別問題か。

次第にもう十分だろうと思うようになっていた。やるだけやって端っこが見えたら、諦めもつくと思った。
諦めるより前に朝が来たとしても、これは、諦めるためにはじめた旅なのだ。いい加減にはじめて、いい加減に終わるはずだった旅なのだ。
でもさ、ここまできたんだから、何か一つくらいは欲しい。欲しいな。

冬を仕事の区切りにしようか、と少し考えもした。
何よりもう体が限界だったし、この夏は実際何度か倒れた。
辞めた後で他に何をしていこうかと考えると停滞する。でも軸を失ってしまって、これ以上この場所で何を得たいのかというともうわからない。
ただ疲弊して、何もかも忘れて休みたいと思った。
死にたいくせにしんどくて休みたいだなんて馬鹿げてる。死んでしまうまで苦しんだらいい。それが、痛みに恐怖したわたしに課された罰である。

結局、悲しみが致死量に達しないように誤魔化せる何かが欲しいだけなんである。今は生きることよりも、毎日をこなすことの方が大変だから、生きるなんてことに構っていられない。そのことがわたしを延命していく。

大切なものも、自分自身も、何もかもを振り切ってここまできた。そうして得たものはなんだろう、失ったものはなんだろう。
支柱を失ったわたしは案外脆かった。
結局わたしは何を期待してたかな。こども騙しを信じていたかっただけだったかな。
ほら。あなたには届かなかったよ。

それでも特別な今日を生きていて、あなたが生きている世界を生きていて、わたしは、わたしに出会うまで、涙の染み込んだ重たい羽を引きずって歩っていく。
また、やわらかい音楽を聴きながら、そんな日に帰れることを願いながら。プレイリストをスクロールする。またねと、再生ボタンを押した。

うまく馴染まない音で、わたしはわたしを希釈して、急かされるように朝を蹴り上げる。傷んだスニーカーで、わたしを探しに行く。

神様のいない世界を。

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