「少年」と「少女」そして「少男」
言語というのは民族をはじめ、各地域の価値を映し出す興味深いツールだ。
国や民族が違えば同じような言葉でも微妙に意味が違ってくるし、訳者が困ることは多々あるだろうと思う。
言葉の意味に差異が生じるのは、そこに文化があり文脈があるからだ。
と偉そうに語っているが、言語について専門的に学んだものではないので悪しからず。
さて、「少年」の対義語は「少女」、なのであろうか。
調べると一応そうなっている。
でも、それはおかしい。
なぜ「少男」ではないんだろう。
厚労省の調査による年齢の区切り方の定義では、「幼年」は0~4歳、「少年」は5~14歳、「青年」は15~24歳、「壮年」は25~44歳、「中年」は45~64歳、それ以上は「高年」となっているらしい。
つまりここでの「少年」は男女の区別はなく、年齢の区切りのひとつとして使われている。
「少女」は子供の女の子を意味するが、「少男」という言葉が存在しないことを考えると、「少女」には特別な意味があるのだろうか。
一般的には男社会による価値基準の中で、基本的には男子を意味する言葉にはあえて男を付けた名称はなく、女を付けて区別した、という言説がある。
少年は両性を意味するのであれば、男女の区別をするためには「少女」が作られたということか。
英語だとjuvenileがあり、そしてboyとgirlがある。とても分かりやすい。
前置きが長くなったが、少女漫画が原作のアニメを観ると、結構な確率で涙腺が崩壊する。
つい最近「かげきしょうじょ!!」という作品を観たのだが、とてもよかった。
宝塚歌劇団の養成学校がモデルの青春ものだ。
過去に観て泣きまくった作品(主にアニメ)に「のだめカンタービレ」「ちはやふる」「3月のライオン」「昭和元禄落語心中」(これは青年向けか)がある。
これらの作品が「少年漫画」と何が違うのかは一目瞭然だ。
少女漫画のメインは人間関係で、それを殊更繊細に描き、その関係性の深さゆえにドラマが生じていくという流れだ。つまりとても濃い人間ドラマなのだ。
合理的(ビジネス的)な男性と感情的(ヒューマニズム的)な女性、とはしばしば男女の対比として言われるが、少女漫画と少年漫画の差異にもそれらは感じることができる。
超越的なパワーは男性の支配力を示唆するし、その力を以て成長し夢(目的)を叶えていくのが王道の少年漫画に対し、現実的で深い人間性を描くのが少女漫画(の名作)だと思う。
超越的な現象にも理由(半ば屁理屈)をつけ、あくまで合理的にまとめてしまう少年漫画において、少女漫画のようなリアリティのある人間関係は描きづらいし、あわよくば夢(希望)を壊すことに繋がってしまう。
少年漫画の人間関係はファンタジックでロマンチックなので、リアリティは薄い。
青年誌はこの差異が縮まるが、男性向けはこれを引きずっているロマン系が多いと思う。
「少女」という日本的な差異が生む言葉の裏には、存在しない「少男」の存在が隠れているように思う。
この「少男」には、男性社会ゆえに纏わなければならない仮面が剥ぎ取られた、そんな”素”の男性像が反映されているように思うのだ。
だからとても純粋な、キラキラした曇りのない男性がいる。
男性も元々はそうであるはずなのに、社会の支配構造によって否応なく無意識にも仮面を被らされている。
その必然的仮面によって人生を翻弄されるからこそドラマが生じ、力への意思が生じて戦いを是とするサバイバルに身を投じることが出来る。
それを描くのが少年漫画の王道バトルもののように思うが、主人公の純粋性には「少男」が潜んでいるのだと思う。
なんだかまとまりのない思考の吐露になってしまったが、深い人間性が描かれる少女漫画の傑作からは、色々な気づきがある、ということが言いたかったのだ。
少女漫画の歴史において萩尾望都さんの影響は大きいのだろうなと思うが、萩尾さんはきっと手塚治虫の影響があるだろう。
日本の漫画の原点とも言える手塚治虫は、とてつもなく偉大だと思う。
彼の作品は圧倒的に倫理的であり、医学的な合理性もあり、それでいて狂気に満ちていた。
人間の愚かさを”正しく”描けた数少ない作家だと思う。
だから彼の作品は今でも多くの人の心に響くのだろう。
特に青年誌に発表していた作品には鬼気迫るものが多い。
「きりひと讃歌」「奇子」「ばるぼら」「シュマリ」「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」など。