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今も昔も変わらない~中国近現代史~

①目が覚めた日清戦争
中国の弱体化が始まったのは、西洋諸国が外界へと進み始める大航海時代ぐらいであったと思います。明という国が庶民の貿易活動を制限する貿易禁止令を出しました。ここから中国は、鄭和による大航海があったものの、内政への集中により、視野狭窄に陥りました。この頃イギリスでは、世界地図を広げて競争力のある商品の産出場所を特定し、植民地支配することで、世界中の富の独占を考えていました。この頃の国際競争力のある商品と言えば、インドの綿織物や東インド諸島の香辛料、そして中国の絹、陶磁器、紅茶です。ヨーロッパの料理には肉を使用するため、肉の保存や味付けに必要なのが香辛料でした。イギリスでは、貴族の間で喫茶文化が流行し、また資本家が労働者を長時間労働させるため、カフェイン摂取のためよく紅茶を飲ませました。そのため、紅茶の需要が急増しました。イギリスは、香辛料の産出国である東インド諸島をかけてフランスと争いますが、敗れてしまいます。そのため、中国の清から紅茶を輸入するようになりました。しかし、銀で支払いをしていたため、イギリスから銀がどんどん流出し、国内の銀価格が高騰しました。銀で税金を納めていた民衆が増税により、不満を募らせていました。なんとか銀を回収したいイギリスが、ここでインド産アヘンを持ち込んだことでアヘン戦争が始まります。この次に、再びアロー号のイギリス国旗を役人が海に投げ捨てたことで、再びイギリスと戦争します。しかし、近代化の進むイギリスに手も足も出ません。結果は、惨敗。ここから、清の植民地化がどんどん進みます。(この時の清は縞模様)この時、ソ連も南下してきており、中国の植民地化に参加してきます。不凍港への異常な執着心を恐れた日本が、ソ連の侵攻を止めるため、清の属国であった朝鮮をかけて日清戦争を行いました。日本は勝利し、続く日露戦争でも勝利します。
日清戦争の敗北は、清に大きな影響を与えたと思います。あれほど文明が進んでいた中国ですから、格下の日本に負けるわけがない、と。しかし、清内がアヘンによって混乱している間、日本は明治政府を樹立し、法治国家にして政治の仕組みを変え、そして教育を変えて近代化を図りました。日清戦争は、人間の”当事者意識”の重要性を教えてくれます。

②中華民国を一つにした張学良
日清戦争の後、「このままでは自国が諸外国に占領されてしまう」と危機感を抱いた人々による革命が起こります。その中で最も有名なのが、中国同盟会という孫文が結成した組織による辛亥革命です。この革命によって、共和政の中華民国が建国されます。孫文は海外の生活が長かったらしく、客観的に世界での立ち位置を把握できる珍しい人物でした。しかし、ここから国民党と共産党の戦いが始まります。それぞれの考える正義は、国民党が民主主義で、共産党が社会主義です。特に、社会主義派の大きな運動だったのが北京大学の学生による五・四運動です。陳独秀や他の作家による文学革命が起こり、影響を受けた学生が反発しました。今も昔も、メディアの影響力は非常に強いですね(笑)しかし、再び中国が内政へ意識を集中しているさなか、日本が満州へ攻めるために張作霖を爆殺します。さらに、これに続いて南満州鉄道の爆破を中国の責任とした満州事変が起きました。ここで、本章の主人公である張作霖の息子、張学良が登場します。再び日本に敗北することへ危機感を抱き、「今こそ中華民国が一つに力を合わせるときだ!!」と説得したことで、国民党と共産党が再び力を合わせることができ、加えてアメリカの後ろ盾もあったため、日中戦争では勝利することができました。

③共産党による社会主義革命
日中戦争、そして太平洋戦争によって日本は敗戦国となりました。
この頃、中国はと言えば再び国内で国民党と共産党が分裂しておりました。この二党は、まさに水と油の関係であり、結果的に一つになることはありませんでした。共産党の国家主席となった毛沢東は、この戦いを勝利し、新たな社会主義国家中華人民共和国を建国し、中国を統一します。毛沢東は、大躍進政策という国家の計画に基づいた政治を行いました。しかし、急激な改革であったため、やはり反発を生みました。特に、農民。国家計画の目標が生産量で定められていたのか、無理やり目標達成を実現したことで、農民の餓死者が急増しました。民衆の国家への大きな反乱(天安門事件)に対して、毛沢東はプロレタリア(労働者)文化大革命を行い、社会主義の考え方に反抗する人々を大量に殺害しました。現在は、計画経済から市場経済へと移行したものの、政治は自由化されておらず一党独裁体制であります。習近平国家主席は、三期目に突入いたしました。

④大国中国を理解する3つのポイント
近代から現在の中国までの変遷をお伝えしてきました。どんなに戦って話し合っても分裂し、国の危機が迫りに迫った時になってようやく一つになることができる。古代史でも統一国家が反乱によって崩壊し、反乱の中から次の勇者が現れる。これが何度も何度も繰り返されます。国土が広いことが原因だと思いますが、反乱の鎮圧にかかりっきりになるので、国外からの侵入者への対応が遅れがちになります。それが昔であれば北方民族で、近代であれば特に日本だったのかな、、、と。
中国を理解するためには、まず始皇帝のことを理解する必要があると思います。中国という国の基盤は、始皇帝の作ったものであるため、紀元前から根本は変わっていないように感じます。始皇帝に代わって共産党が一党独裁で政治を行っています。毛沢東のプロレタリア文化大革命も、始皇帝が法家の考え方に反発する知識人、特に儒家を滅ぼす焚書坑儒に似ています。そして、現代の米国企業のSNS規制も同じことではないか、と思います。一帯一路政策ももとをたどれば、始皇帝のインフラ建設。昔は国内で行われていたことが、今は世界規模で行われている、ということ。
そして、王の威信と財を交換する威信財交易を発端とする中華思想です。僕自身一度、中国人の方と中華料理を食べたときに話した時の印象が、「とにかく自我が強くて偉そう」でした(笑)でも、何回かお話するととても気さくに色々なことを教えてくれました。この日本で言う天狗のような最初の印象は、実は周囲の国がもてはやしすぎたことが原因にありました。威信財交易が中国の領土内では、一国の王がもてはやされ、これが対周辺国になれば中国の国家主席がもてはやされることになります。そういうわけで、中華思想が歴史の中で育まれたようです。
最後は、遊牧民と農耕民の頻繁な交わりです。この章の前半でもお話したように、古代中国が長年苦しんだ敵は、北方民族でした。アヘン戦争時代の清は、北方民族である女真族が建国した国ですもんね!!しかし、中国は漢民族が9割近い国ですから、そう簡単に民族の特色を塗り替えることはできないわけです。ですから、最終的には漢民族のスタイルに染まってしまいます。攻め込まれては、吸収を繰り返してきた国のように思います。

中国史は以上でございます!!参考書籍は、以下の二点です。

ありがとうございました。

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